市川宗家からいったんは破門された初代猿之助
四代目市川猿之助を取り巻く巷のさまざまな記事には、澤瀉屋(おもだかや=歌舞伎における市川猿之助の家の屋号)の梨園(=歌舞伎界)における立ち位置への見当違いな理解に基づいた記事が多い。
これじゃあ渦中の四代目猿之助も「オレの家ってこんなにも理解されていないのか」と思うに違いない。
まずは歌舞伎の歴史に詳しくない人のための基礎知識からお届けする。
江戸時代には江戸歌舞伎と上方歌舞伎のふたつの流れがあり、江戸は派手で勇壮な“荒事”、上方は男女の情愛や心中などを描いた“和事”が発達した。
荒事のスタイルを完成させたのが市川團十郎家(市川宗家=成田屋)で、戦後に上方歌舞伎が衰退し、関西の歌舞伎俳優たちが一座を組むことがなくなったこともあり、市川宗家こそが梨園全体における総本山的立場になった。
歴代市川團十郎の中でも、明治期に活躍して歌舞伎を今日のポジションに押し上げたのが“劇聖”とまで謳われた九代目市川團十郎。澤瀉屋の始祖である初代市川猿之助は、その九代目團十郎の弟子のひとりだ。
その初代猿之助がまだ坂東羽太作を名乗っていた明治のはじめ頃、小劇場にて無断で『勧進帳』の弁慶を演じたことで師匠の逆鱗に触れ、破門されたのが澤瀉屋の苦難の歴史の始まりだった。その後、1890年になってようやく破門を解かれ、初代市川猿之助を名乗ることを許され、九代目團十郎の高弟として活躍した。
ちなみに『勧進帳』は初代團十郎が原型を作り、九代目團十郎が完成させた文字通りの成田屋のお家芸。無断で演じたらそりゃ怒られるだろう。