猿之助と段四郎、ふたつの名跡を同格に扱う澤瀉屋
梨園では、最後に名乗る名が“止め名”として重視される。初代猿之助は脂の乗り切った壮年期20年間を猿之助として過ごしたものの、“止め名”は晩年に名乗った二代目段四郎だった。
そのため、長男には二代目猿之助を継がせ、長孫(二代目猿之助の長男)に三代目段四郎を継がせた。そして三代目段四郎は長男を三代目猿之助、次男を四代目段四郎としている。
宙乗りを駆使した「スーパー歌舞伎」を始めたのが、この三代目猿之助で、今回の一家心中未遂で亡くなったのが弟の四代目段四郎だ。簡単に言えば澤瀉屋では、猿之助と段四郎の名跡を同格のものとして扱い、一代ごとに交互に襲名させてきたわけだ。
二代目猿之助は亡くなる直前、隠居名として初代市川猿翁を名乗ったものの、半世紀にわたって猿之助として活躍。松竹初のカラー版オールスター忠臣蔵映画として製作された『大忠臣蔵』(1957)では主役の大石内蔵助を演じ、日本俳優協会の初代会長を務めるなど、團十郎の後継者がいなかった時代の歌舞伎界の要の位置にいた。
その長男である三代目段四郎は、歌舞伎の舞台よりも、東宝で映画俳優として活躍した人。戦後間もない頃、三船敏郎がスターになる前の東宝で時代劇に立て続けに主演した(『戦国無頼』、『四十八人目の男』、『喧嘩安兵衛』いずれも1952年製作)。その後、松竹映画でも時代劇の存在感ある脇役として活躍したが、本業の歌舞伎では傍流だった。
1963年5月に長男に猿之助を継がせ、6月に父・二代目猿之助が亡くなると、自身も11月に55歳で若死にした。
再び市川宗家の逆鱗に触れた孫の不始末
一方の市川宗家では、九代目團十郎が1903年に亡くなった後、60年間後継者が不在だったが、1962年になり、高麗屋から市川宗家に養子として入った九代目市川海老蔵が、十一代目市川團十郎を継いだ(十代目でなく十一代目だったのは養父市川三升に死後十代目を追贈したことによる)。ちなみにこの十一代目は現在の十三代目團十郎の祖父にあたる。
十一代目團十郎は些細なことで癇癪を起こす人物で、周囲との軋轢が絶えなかったことで知られている。二代目猿之助が元気だった頃、長孫は市川團子を名乗っていたが、成人したのにいつまでも團子という幼名のままでいる自身の境遇を踏まえ、人気映画『雪之丞変化』から採って「新たに市川雪之丞とでも名乗ろうか」とメディアに対して軽口を言った。
これが十一代目の逆鱗に触れた。祖父の二代目猿之助は市川宗家に飛んで行って詫びを入れ、すぐに自身は隠居して初代猿翁となり、猿之助の名跡を團子に継がせる襲名披露興行を行った。しかし十一代目は、師匠筋として本来出るべき「口上」出演を拒否した。
その直後に祖父と父が相次いで亡くなり、後ろ楯を失った三代目猿之助は、ある意味、梨園のつまはじき者として居場所がなくなり、「スーパー歌舞伎」という全く別物の見世物興行で生きていくしかなくなったわけだ。