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1980年代、台湾人は恐る恐る大陸へ

1980年代、中国が改革開放に転じたとき海外華僑は半信半疑だった。最初は香港の華僑が、それも零細企業がスイッチの部品とか、プラスチック成形機を運んで、人件費の安さに惹かれ中国に進出した。といっても広東語の通じる広州から深圳にかけて進出した地域は限定されていた。広東人にとって上海語はまったく理解できない。

華僑コネクションを通じて噂を伝え聞いた台湾人が、おそるおそる、繊維、プラスチック、玩具、軽工業や機械部品の工場を大陸に移管し始めた。第一に台湾語は福建語の変形だから言葉が通じる福州、厦門あたりへ。第二の理由は賃金だった。アパレル進出の台湾工場では大陸の女工さんたちを台湾の5分の1以下の給与で雇用できた。

台湾企業の中国投資ブームが起こった。ウーロン茶製造のノウハウからカラスミの処理方法まで台湾人が大陸へ持ち込んだ。台湾の経営者のなかには現地妻を抱える手合いも夥しく、そのお手当の安さを吹聴したものだった。

ここでマフィアが絡み出した。台湾人の住まいを狙う窃盗、強盗事件が頻発。殺人事件も相当数にのぼった。ついで脅迫、誘拐による身代金、美人局ときた。政治的に見ると江沢民から胡錦濤時代の20年間、中国ではかなりの程度まで商業活動は自由で、ぼちぼちスナックがナイトクラブとなり、高給バーやらワインバー、なかには日本酒の銘酒をそろえたバーもできた。めざましい経済発展がおきた。クラブは大概が銀座の真似でボトルキープの棚が目立った。ほとんどのビジネスホテルにカラオケバーがあった。


一気に30万人消失! 台湾人が中国大陸から逃げ出している…技術を盗まれ、工場は乗っ取られ、愛人たちは金を持ち逃げし…_1
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「大丈夫、われわれは中国人同士、考えていることはわかる」

1990年代に台湾は中国投資を上限5000万ドルとして正式に許可し始める。

台湾プラスチックの王永慶会長にこの頃インタビューに行ったが、上限額を超える投資を中国大陸になすというので「禁止されているのでは?」と聞いた。王は「米国子会社の投資とするので台湾の規制には引っかからない」とあっけらかんとしていた。

金門島の知事に会いに行くと、「台湾から対岸の厦門へ橋をかける」と豪語しはじめ、具体的な青写真を見せてくれた。台湾侵略にミサイルを配備している国に金門島から橋を繫げるのは危険では?」と尋ねた。「大丈夫、われわれは中国人同士、考えていることはわかる」と胸を張った。