気がついたら10メートル後方に…
最初の犠牲者が出てしまう

下山途中だった北海道学園大学のパーティーが、ハンターの出動要請を引き受けてくれることになり、2人は「まだ上に仲間がいるから」と再び沢を登って引き返した。

午後1時頃、カムエク近くの稜線で5人は再び合流。鳥取大学のパーティーと出会い、少し会話を交わした後、午後3時頃に標高1880メートル地点にテントを張った。翌日、カムエクをピストンして八ノ沢へ下りるルートが付近にあったこと、また沢よりも高所である稜線上の方がクマの行動をとらえやすく安全だと判断したからだ。しかし、夕食を済ませて寝る準備をしていると再びクマが現れた。午後4時30分頃のことだ。

5人はテントを離れ、1時間半ほど様子を見た後、八ノ沢カールに幕営すると言っていた鳥取大学に合流させてもらおうとして稜線を下り始める。しかし、気がついた時にはクマは10メートル後方まで迫っていた。

「クマだ!」と誰かが叫び、全員が散り散りになりながら逃げていた中、生い茂るハイマツの中で「ギャー!」という悲鳴とともにゴソゴソと格闘している音が聞こえてきた。途端にAがそのハイマツ帯から飛び出して「チクショウ!」と大声で叫び、クマに追われるかたちで足を引きずりながら八ノ沢カールへ向かって走って行った。これが、Aが目撃された最後の場面となる。

その後、リーダーが集合をかけたが、集まったのは3人のみ。30メートルほど下からBの応える声が聞こえたが、姿は見えなかった。

〈クマ事件簿〉腹部をえぐった爪痕が…逃げても逃げてもヒグマは追いかけてくる「福岡大ワンダーフォーゲル」3日で6回襲撃の惨劇_3
※④~⑪の出来事は八ノ沢カール。参考:『北海道新聞』1970(昭和45)年7月28日(16版)。『日本クマ事件簿』より

「すべてが不安で恐ろしい」仲間とはぐれ
詳細をメモに残す

1人はぐれてしまったBは、翌27日の午後3時頃までは生存していたことが遺品のメモからわかっている。

メモによるとBは、リーダーの声が聞こえたものの判別できず、崖下に焚き火が見えたため下り始めたところ20メートル先にクマを発見。クマが向かってきたため15センチほどの石を投げて命中させ、10メートルほど後退した隙に、下のテント目がけて逃げ込んだが、中に人はいなかった、とある。明朝午前7時、「沢を下ることにする。(中略)テントを出て見ると、5メートル上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる」「いつ助けに来るのか。すべてが不安で恐ろしい」。メモには、クマに襲われる寸前まで、不安と恐怖に駆られながらテントの中で救助隊を待っていた様子が生々しく綴られていた。

一方、集まった3人は鳥取大学のテントに避難。鳥取大学のパーティーは焚き火を起こしてくれたり、ホイッスルを吹いてくれたが、午後7時頃に下山していった。

3人ははぐれたメンバーを探すためだろうか、一緒に下山はせず、安全な場所と思わしき岩場に登って身を隠し、朝が来るのを祈るように待った。その夜は、一睡もすることができなかったという。

27日は朝から霧が濃く、視界は5メートルほどだった。気象条件は決して良いとは言えなかったが、一行は午前8時頃から行動を開始した。15分ほど歩いた頃、一瞬の霧の晴れ間から、下方2〜3メートルにたたずむクマの姿が目に飛び込んできた。一瞬、唖然としたが、「死んだ真似をしろ」と1人が声を上げ、すぐさま身を伏せたもののすでに遅く、クマが恐ろしい唸り声を上げてこちらへ向かってきた。Cが立ち上がってクマを押し退け逃げようとするも、クマも負けじとCに襲いかかる。

Cはクマに追われながら、八ノ沢カールの方へ走り去っていった。
残された2人は反対方向へ懸命に山を下り、五ノ沢の工事現場でトラックに拾ってもらい、無事に下山している。