「サツマイモの葉に灰がついていた」
1945年8月9日、当時9歳だった岩永さんは、爆心地から南に約10.5km離れた西彼杵郡深堀村(当時)にいた。
その日朝から、岩永さんは自宅近くの畑に出ていた。姉と一緒に、母の農作業を手伝うためだった。空は、真っ青に晴れていた。午前11時前、自宅へ戻る道中に、2人の兵士に出くわした。そのうちの1人が頭上を指さし、「あれは日本のじゃないな」と言った。飛び去る飛行機を見ようと上を向いた瞬間、正面から光と爆風が襲ってきた。「やられた!」。瞬間的に、「死んだ」と錯覚するくらいの衝撃だった。近くの暗きょへ逃げ込んでやり過ごしたが、夜には長崎市中心部がもうもうと燃え、真っ黒い煙が上がる様を見たという。
岩永さん自身は、「黒い雨」や灰を浴びた記憶はない。しかし、近所には「雨が降った」という人や、「サツマイモの葉に灰がついていた」と話す人がいたそうだ。さらに、当時その集落に水道設備はなく、フタがない井戸の水を汲んで飲み、岩場や川の水を生活用水にしていた。
岩永さんは原爆投下から1週間後くらいに髪が抜け、歯ぐきから血が出るようになった。また、これまでに狭心症や腹膜炎、白内障などを患い、今は10種類の薬を飲んでいる。近頃は手の痛みとしびれがひどく、夜は2時間続けて眠れると良い方だ。
本人尋問で岩永さんは、「原爆の影響がないとは言えないと思う。それが怖い」と、手をさすりながら話していた。
許せない「地図の不合理」
だが、岩永さんがいた地点は、「被爆者」としての援護を否定され続けている。長崎の援護対象区域を記した下図を参照してほしい。
桃色(被爆地域)と青色(第一種健康診断特例区域)のエリアが、原爆投下当時その場にいたことが証明できれば「被爆者」に認められる地域だ。爆心地から南北に最大約12㎞、東西には約7kmに広がっている。両エリアは制度に違いはあるものの、基準を満たせば手帳が交付されて医療費の自己負担分が無料になり、各種手当を受けることができる。原爆放射線の健康影響がいつ現れるかわからないからこそ、国の責任で講じられている援護措置だ。
他方、黄色のエリア(第二種健康診断特例区域)にいた人たちは、被爆者と区別して「被爆体験者」と呼ばれている。ここは桃・青色のエリアと比べて、決定的な違いがある。国が「放射能の影響なし」と断じ、精神上の健康悪化しか認めていないのだ。住民が訴える健康被害は原爆によるトラウマによるものだとして、医療費の助成を精神疾患とそれに伴う合併症に限定してきた。対象も県内在住者だけだった。
この4月からは、胃がんなど7種のがんに対して医療費が助成されるようになったが、精神疾患に伴う合併症とがんとの関連を調べるための「調査研究」との位置づけだ。助成もその対価として支払われるもので、「被爆者」認定を求める被爆体験者の願いからは程遠い。
この地域にいた住民たちは2007年、被爆体験者訴訟を起こし、国と長崎県・市に手帳を交付するよう求めている。17年に最高裁で敗訴したものの、一部の原告が再度提訴し、この新たな裁判が長崎地裁で係争中だ。
16年にわたって裁判を続ける岩永さんがいた深堀村も、この黄色のエリア内にある。許せないのは、「地図の不合理」だ。
前述の通り、被爆者に認定される爆心地からの距離は、南北に最大で約12㎞だ。この理由は、衆議院予算委(1978年2月)の答弁で、「大体行政区画で指定をしたために上下に長くえらい指定をしまして」と説明されている。東西は、12㎞より爆心地に近い地域であっても被爆者に認められないという「不合理」が生じている。
係争中の訴訟で原告側は、地域を限定したことに根拠はなく、「著しい不平等を招いている」と主張。その上で、「外部被曝あるいは内部被曝による危険性の大きさを考えると、爆心地から12㎞は当然に指定すべき」と指摘している。
南北は、広い範囲が援護対象に指定されている。ならば、あえて12㎞圏内全域を認めず縦長に絞った合理的な根拠を、国には示してもらいたいところだ。これについて国側は、「住民の健康調査結果等」を根拠に挙げるが、原告側は「調査方法が不明で」「有効な統計資料とは言い難い」と反論しており、重要な争点の1つとなっている。