日本は戦後から「民主的な家庭」になるはずだった?
——家庭科の改革は、誰が中心となって行われたのでしょうか。
ここからは、私の専門である家庭科教育に関して、歴史を中心にお話しします。この教育改革の際、当時の文部省で新教科である家庭科の学習指導要領の原案作成を担当することになったのは、大森(山本)松代という女性です。彼女は戦前にアメリカに留学しており、戦後は通訳として文部省に出入りしていました。文部省の官僚ではなかった彼女に原案作成の白羽の矢が立ったのは、GHQの考えを理解しているとみなされたからでしょう。
新しい家庭科教育を考える際、アメリカで教育を受けた大森氏が絶対に譲れなかったのが、民主的な家庭建設を目指した男女共学の家庭科です。民主的な家庭とは、夫と妻が助け合いながら運営される家庭のこと。それまでの日本の家庭は、男性の「家長」を中心とした家父長制であり、女性は家で家事や育児に専念するのが当たり前でした。
しかし大森氏は「男女共学」ということを文部省と確認してから、家庭科の学習指導要領原案を書き始めたといいます。こうして作成された学習指導要領は、その冒頭の「はじめのことば」で「家庭科すなわち家庭建設の教育は」から始まり、小学校においては「男女ともに家庭科を学ぶべきである」としています。
ところが中学校になるとトーンダウンしてきて、「大部分の女生徒はこの科を選ぶものと思われるが、中には男生徒もこれを選ぶかもしれない」と書かれています。性別役割分業の兆しが、ここからも読み取れますね。しかしそれでも、家庭科の内容に関して「家族関係」の学習を中心とすることが述べられていました。
当時の日本社会が目指していた社会の民主化を推進するために、家庭科教育を通して「社会の基礎単位」としての家庭の民主化を推進していくことが期待されたのです。
——家庭の民主化は、現代でも通じる価値観だと思います。これが崩れていった背景には、どのような要因があったのでしょうか。
新しい教育を推進し、アメリカ流の民主的な家庭建設を目指したものの、家庭の主たる担い手が主婦であることは揺らぎませんでした。民法改正で男女平等が認められるようになることにさえ、「時期尚早だ」という意見があったような時代です。せいぜい「女性の家事はやって当たり前のものではなく、大切な仕事だと認めるべき」「男性や子どももできる範囲で手伝おう」という風潮で、大森氏が理想とした民主的な家庭までは一歩届かなかった印象があります。
中学校では職業科の一科目としてスタートした「家庭」は、地域によって男女ともに選択が可能でした。高校では選択科目であったので、履修する女子生徒は100%ではなかったのです。
とはいっても6割近い女子生徒は履修していたのですが、この状況を危惧した家庭科教師の団体が「本質的な女子教育」として家庭科を女子の必修科目とすべきという請願書を提出するに至ります。「女子の特性を生かした教育が保証されるべき」という考え方ですが、そもそも身体的性差に基づいた役割を意味づけ、学ぶ内容を男女で分けようとする気配がここからも立ち上っていますね。
そして1950年代後半に入って高度経済成長期に突入し、先にお話ししたように日本は科学技術の振興が命題となります。この時代の荒波に職業・家庭科も巻き込まれ、前述の通り「技術・家庭科」が誕生し、男女が別の内容を学ぶようになりました。