最も敬愛した大平正芳の思い出

「池田政権はベトナム戦争の渦中にある時の返還協議は、タイミングが悪いと判断した。この局面で下手を打つと、ベトナム戦争に巻き込まれる。沖縄が前線基地の中でも最重要拠点で、米国本土からではなく、沖縄から出撃していた。政治日程として後ろにずらすべきだと考えた。それに付け込んだのが佐藤栄作政権だった。池田政権が沖縄返還という政治的イシューを先送りした、と佐藤は受け止め、しめたと。池田がやらないなら、これは俺がやってやるぞとなった。これが本当の真実です」

「佐藤という人は、自分が何かをやりたい、自分が何か必ず達成したい、自分の(政権の)うちに必ずこれを実現したいという、そういう我欲の非常に強い人でした。だから、沖縄返還でも1972年までの自分の任期内、自分の内閣のうちにどうしても実現させようという、よく言えば使命感、悪く言えば政治的野心を持っていた。72年返還というタイムスケジュールは絶対で、どうしても無理が生じる。できるかできないかわからんことを無理やり一定の期間内にやるんですから、必ず無理が出る。その無理っていうのが秘密になるし、密約になるんですよ」

宏池会担当の派閥記者として、当時の激しい派閥間の角逐、権力闘争を体で体得したものでなければ出てこないであろう見立て、分析であった。

その3は、政治家の中では最も敬愛した大平正芳の思い出であった。

そもそも大平との接点はどこにあったか。食い込むために1年365日毎日夜討ち朝駆けしたこと、「楕円の思想家」としての大平、クリスチャンとしての大平、大平と田中角栄の友情…と詳しくは、『西山太吉 最後の告白』を読んでいただきたいが、私が最も聞きたかったのは、事件後の大平との関係だ。

事件で西山さんは大平との断交を迫られた。西山さんが電文を社会党に渡し、それを元に社会党の追及チームが国会で質問、佐藤政権を揺さぶったことで、西山さんが反佐藤であった大平の意向を受けて政局的な動きをした、との観測が出回ったからである。大平としては、それを打ち消すためにも、西山さんを表向きは切り捨てざるを得なかった。西山さんもある意味、大平に合わせる顔がなかった。

その後西山さんが自分の裁判闘争に専念しているうちに、大平は永田町でのステップを一歩ずつ上がり、最高裁で西山さんの刑事裁判の有罪が確定した78年には、首相の座まで上りつめた。それを西山さんはどう見ていたのか。大平とは本当に何の接触もなかったのか。

何度もそれを問うのに対し、西山さんが渋々、だが嬉しそうに明かした内容が忘れられない。

「実はね。あの大事件を起こした後に、大平から私に、密かに伝えてくれという言葉があったの。『何もできないけれども、野に下ったら会おうぜ』っていう一言。『野に下ったら、会うからな』っていう、それだけ、伝言があったですよ。私の方も、会っちゃいけない。会うべきじゃない。なぜかって言ったら、私が大平に近いからあの事件を起こした、佐藤を倒そうとした、なんて勘繰るやつがいたからね。そんなことは絶対ない、微塵もないけれど、俺が野に下るまでは会わない、とね。後は、何もない。何もなかったね。大平との間は…」

西山さんは多分、大平が野に下るのを心待ちにしていたのではないか、と私は思った。ただ、大平は80年6月12日、首相として衆参同日選挙の渦中、心不全で急死、野に下る間もなく昇天した。それから43年近く経過、運命の記者はようやく冥界で敬愛する人と魂の再会を果たしているかもしれない。

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