この世の中は巨大な「劇場」なのかもしれない
金平 たとえば、ある事件の被害者のところに取材陣が押しかけてくる。自分もその中の一人として付き合いながら、誰も聞き出せていない話をなんとかして聞けたらと思う。
怖いのは、そうやって取材を続けるうちに、取材する側、される側の「共依存」の関係に陥りかけていることがあるんですね。「金平さん、飲みにいきましょう」と誘われたりして。これは関係としてマズいなということが。
だから、義家さんに対する河野さんの話を聞いて、ああ、この人は信用できると思った。それが今回、解説をお引き受けした理由です。
河野 ありがとうございます。
金平 だって正直に言うと僕は、冒険家とか、登山家とか、アスリートとかにまったく興味のない人間だから(笑)。僕はもう非常にだらしない人間で。精神的な達成とか、肉体的な達成、そういうものとは無縁の人間にこそ興味がある。
だけども、河野さんは一回会っただけで栗城さんのことを「あっ、これは面白い」と思ったわけでしょう。面白いと思う気持ちをなくしたら僕らの仕事は成り立たない面があるんだけど。
河野 そうですね。栗城さんは体も小さくて登山家のタフなイメージとかけはなれていたのと、「(低酸素で動ける)マグロになりたい」っていう言葉の意外性に惹かれました。
金平 僕は、栗城史多さんのことを全く知らなかった。だけど、まあ、一気に読んじゃいましたよ。読んでよかった。共振するような場面がいくつもありました。
「エベレスト劇場」と副題が付いていますが、世の中で起きていることって、たしかに「劇場」だなあと。栗城さんのように期待された「役割」を演じようとする。
そこは、すごく残酷な世界でもある。社会のありようとして、健康的じゃない。みんなが皆ステージの上に乗らないといけないのか。ステージばかりが世の中じゃないんだよ、と考えさせられました。
河野さんも本で書いているけど、テレビの人間というのは良いところだけ、その人の一番上り調子のところだけを描きたい。その方が「ショー」として成り立ちますからね。注目も浴びるし。
だけども、ダメになっていくところまで付き合ってくる人ってなかなかいない。そういう意味で言うと、よく本にしたなあと思います。
僕はこれを読みながら、栗城さんがやった「登山する自身」をインターネット中継する、そうやって自分を見せていくことが、果たして幸せだったんだろうかと考えてしまって。河野さん、どう思います?
河野 幸せだったかどうかは彼にしかわからないというか、もしかしたら彼自身、自分の気持ちがわからなくなってしまっていた可能性もあると思います。でも少なくともネット生中継を宣言した当初は、間違いなくワクワクしていたはずです。
ところが、彼が配信していた映像は、はっきり言って「作品」と呼べるほど練れていなかった。ただ映して、流しているだけ。あのやり方はちょっと違うなと思っています。
金平 うん。
河野 栗城さんの提供する動画は、ご本人の体力の問題とか、指を失くした(エベレスト登頂に挑戦する中で凍傷により両手足の指を9本損傷した)とか色んな理由があるんですけど、どんどん劣化していくんです。最後はもう見るに堪えないものになっていく。
その悲しみに、こういう言い方もなんですが、ノンフィクションとして描く側としては心を惹かれてしまったんです。