“忍びじゃない”服部半蔵は「うれしかった」

そもそも服部さんは“忍者の末裔”であり、“服部一族の子孫”ということだが、服部半蔵とはどのような関係にあったのだろうか。

「大まかにいうと、当家の初代当主と服部半蔵は、“親戚筋”だと伝わっています。
半蔵のお父さんが現在の三重県伊賀市にあたる伊賀国出身(後に三河へ赴いている)の忍びで、当家の初代当主はその兄弟の子供だといわれています。なので、初代は半蔵とは少なくともいとこ以上には近い関係では、と考えております。

なぜかといいますと、いわゆる『天正伊賀の乱』(天正6年に伊賀国で起こった織田氏と伊賀衆の争い)の時に、初代たち一族が、(半蔵とそのお父さんがいる)三河に逃げてるんですよね。当時は、戦乱の際には兄弟のところに逃げるのが筋で、全然知らない土地に身を寄せることはない。“三河の服部”に逃げ、匿ってもらったということは、(初代のお父さんと半蔵のお父さんは)兄弟だろうと、我々は考えてきました」(服部吉右衛門亜樹さん。以下同)

今回の大河では服部半蔵は“忍者ではない”ことを強調。さらに2月26日放送の第8回「三河一揆でどうする!」では、家康の呼び出しにも遅参し、身内の謀反にも気づくのが遅かったと、どこかコミカルな雰囲気を漂わせる「悩める若者」として描かれている。
脚本家の古沢良太氏が打ち出すこの「半蔵像」についてはどう見たのか。

“忍びじゃない”服部半蔵の登場は「うれしかった」……服部一族の末裔当主が語る『どうする家康』と己の出自を隠した幼少時代_3
服部家14代当主・服部吉右衛門亜樹さん

「NHKの大河ドラマの中で服部半蔵が『俺は忍者じゃない』『忍びじゃない』と言っていて、これは画期的だと思って見ております。全国の90%以上の人たちが『服部半蔵は忍者』と思っているところに一石を投じる、すばらしい脚本だった。
「忍者=服部半蔵」のイメージを作ったのは東宝映画の『影の軍団 服部半蔵』(1980年)や、アニメ『忍者ハットリくん』(1981年放映開始)など、昭和時代の色々な脚色があったから、仕方がないのかなぁと受け止めていました。

甲賀対伊賀の対立という構図も、映画会社やテレビの映像作品で仕掛けられたのが元になっていると認識していて、祖父や父からも実情は違うのではと聞いていた。それまでの『半蔵像』や『忍者の描かれ方』に疑問を感じていたからこそ、今回の半蔵は、うれしかったのです」

服部氏がこう力説するには、深いわけがあった。