女子中学生が覚せい剤

かつて暴力団のしのぎといえば、みかじめ料の徴収、金融業、賭博、地上げといったものだった。まだ社会の法制度が整っていなかったため、彼らはそれをうまく利用し、様々な金脈を作っていたのだ。そういう意味では、1980年代くらいまでは、暴力団は「儲かる仕事」だった。

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肩から太ももまで刺青の入った組員
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潮目が変わったのは、1990年代に入っての暴力団対策法。それにつづく暴力団排除条例の施行だった。新しい法制度によって暴力団の構成員と見なされれば、正業をするどころか、銀行口座を持つことや、ホテルに宿泊することすらできなくなった。こうして彼らは収入源の大半を失っていく。

追いつめられた構成員たちがこぞって手を出したのが、覚せい剤を主とした違法薬物の密売だった。グレーの仕事ができなくなったことで、ブラックかつ即金の仕事といえば、これくらいしかなかったのだ。

神奈川県で指定暴力団Y組の二次団体の組員だった河野竜司(仮名、以下同)も追い詰められたひとりだった。所属していた組の幹部が覚せい剤の密輸を手掛けており、竜司はそれを売ることで生計を立てていた。とはいえ、同地域には売人が大勢おり、競争も激しかった。

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暴力団構成員とその妻

そこで彼は大人だけでなく、地元の中学生や自分の妻にまで覚せい剤を売りつけた。

そんな竜司の子として育ったのが、晴子(仮名、以下同)だった。晴子の記憶では、両親は一日中覚せい剤で幻覚を見ているような状態で、家はゴミ屋敷同然だった。薬物のせいで、親が急に襲いかかってきたり、泡を吹いて倒れたりすることも日常だったという。

晴子はそんな家が嫌で、妹と共に公園などで過ごしていた。だが、毎日外をフラフラしていたせいで変質者に目をつけられてしまう。彼女は見知らぬ大人の男から、複数回にわたって性犯罪に巻き込まれたのである。

「家がむちゃくちゃだったから家出したのに、そこでもレイプされれば、生きていることとかどうでもよくなるよね。ヤケになって、つらいことを忘れたいと思った時、手を出したのがクスリ(覚せい剤)だった。親がやっているのを見ていたから、私もやったら同じように楽になれると思ったの」(晴子)