役者は究極に孤独

「ここが時代のボーダーライン」断ち切るものに向き合う時期が来ている――斎藤工が映画『イチケイのカラス』で向き合う時代の光と闇_4

――今、斎藤さんのお仕事では、これまで見たことのない顔や表現が求められる役が多いとも感じます。

そうですね。ただ、観る方が僕を知ってくださってる前提で作品を届けるという思いは端からなくて。僕が映画を撮った時も、タレント監督の作品という枕言葉がついてまわって、キャストやスタッフの方に申し訳ないなという思いがあり、先に1年間、海外の映画祭に出す期間を設けたんです。そこでの評価が正当なジャッジなんじゃないかって。そういう目線を、作品を作るときも参加するときも常に持っていたいんです。

「待ってました」というものに伝統芸能のようにお応えする美しさもあると思うんですけど、僕のように雑草的にこの仕事を始めた人間は、同じ場所にいることが腐敗に繋がるので。発酵するためには、それまで重ねたものを自分から切り離すことをしないと、次には行けないと思っています。

――それには勇気もいると思うのですが、イメージや求められるものと切り離すことになぜ斎藤さんはチャレンジできるのでしょうか。

僕もそうなんですけど、人間って基本的に他人には無責任なんですよね。だから、僕がいなくても世の中は回りますし、僕がどういうプロセスで今に至るかを周りが把握しているという前提を捨てたんです。過去の時間の反射を自分から切り離すことが唯一、自分ができる上を目指す方法だったんですよね。

自分に酔うと、自分の物語の機微を誰かが照らしてくれるようなイメージを持ってしまうけど、そうではなく、役者は究極に孤独な生き物だと思うので。この孤独を受け入れて、大多数にとって僕は、存在してるのかしてないのか定かではないものであることを日々、意識して過ごしていたいなと思ってます。