「お線香の匂いがパパも私たちもあんまり好きじゃないから、朝はチーンってするだけ。パパはクレーン射撃やってた影響で片耳の聴こえが悪かったから、そのチーンって鈴も私はすごく大きく鳴らすんです。
毎日なんだかんだと思い出さない日はなくて、今も日常にパパは溶け込んでいる感じがします」
2019年12月に亡くなった梅宮辰夫さん。一人娘の梅宮アンナさんは、その後の資産の整理や相続の手続きなどに奔走する日々を送った
「相続をするものがある場合、最終的に税金を納めるまでは戸籍謄本や住民票などの書類との格闘で、大げさじゃなく役所に50回くらいは通ったんじゃないかな。
今回しみじみ実感したのは、私はひとりっ子で離婚していて周りに似た境遇の人がいないんです。お金のことは父がしっかり管理していたぶん、母はあまり頼りにはならなくて、さらに学校でもぜんぜん教わってない。そうすると相続について教えてもらう相手がいないんです。
だけど相続って10ヵ月間ですべて終わらせなきゃいけないから、とにかく必死で黙々と作業をこなしました。
パパの生まれた時から亡くなるところまで追って改めてわかったことは、外見は地味じゃないけれど実際は結構地味だったってこと。あれほど豪快に遊ぶイメージだったのに借金もなかったし、よそに子どもがいたりもしなかった。もちろんいたりしたらイヤなんですけれど、そこも調べないと終わらないから。
結果、真面目だったんだなって思いました」
――最後の住まいは真鶴でした。家じまいはいかがでしたか。
「700坪もあったから、私と母だけで暮らすには広すぎるし、維持費がかかりすぎたので処分を決めたんです。それでも売却が決まったのは桜の咲くころで、そこから2か月は毎日片づけの日々でした。
ゴミ収集のトラックを呼んだり、熱海や湯河原の方々に来てもらって好きなものを持っていっていただいたり。料理好きな父が揃えていた食器や包丁とかはレストランをやっている方にひきとってもらったし、母と私では使いこなせないものは全部誰かに持っていっていただきました。手元に残したのは、ネクタイと包丁1,2本くらいですね。
車は、仕事で使っていた高級国産車と趣味で持っていたAC・コブラを欲しい方に相続後にお譲りしました。あと、なぜか父が熊本に持っていた土地も売却しました。
今回の経験で相続ってたいへんなことが身に染みてわかったから、このままにしておくと百々果が次にたいへんになると思って――。肩の荷をひとつでも下ろしたかったんですよね。
多少なりとも資産があって相続をすると、どうしても身内や親族の嫌な部分が見えて傷ついたりする場面もありました。焼き場でパパを待っているときに、葬儀に参列したあるかたが母に『ちゃんとお金の管理しなさいよ、アンナに使われないようにね』って言ってるのが聞こえてきて、ああ私はそんな風に見られているんだなって。
でも、少なくとも梅宮辰夫という人がどういうものが好きで、どういうものが嫌いで、どうしたいと願っていたかってことはその人よりも私のほうがわかっているつもり。
実は梅宮家のお墓がある霊園は、木がたくさん茂って暗くて『あんな暗いところ行きたくない』って父は行きたがらなかった。それを私はずっと聞いていたから、太陽が燦燦と注いで海も山も見えるところに新たにお墓を作ったんです。
父は長男だけど、成人して家を出て家庭を持ったのだから死んでまで梅宮家のお墓に戻らなくてもいいと思って。もしかしたら、これもまた周囲からは陰口をたたかれているかもしれないですけど……」