ピエリアンアウンの「3本指ポーズ」
スタジアムが見えて来た。
「じゃあ、この辺で。うちらはオシムジャパンではなくて、もちろんオシムジェフを応援しますよ」
そう話す夫妻と別れて記者席に向かった。
「ああ、そう言えば」フクアリ、日本代表、佐藤勇人で三題話のように思い出した。昨年2021年、私は日本サッカー界で「オシム的」なものに何度か、遭遇していた。
きっかけは、このフクアリスタジアムで5月に行われたW杯アジア二次予選の日本対ミャンマー戦だった。この試合の国家斉唱時にミャンマーの第2GK・ピエリアンアウンは、母国で起きた軍事クーデターに抗議を示す3本指ポーズを示した。
ミャンマーでは2月1日に選挙で大敗した国軍が政権を転覆させ、自国の国民に銃を向けていた。抵抗する者には容赦なく、ピエリアンの後輩であるU-21の代表キャプテン・チェポーポーニェエンまでも撃ち殺された。
ピエリアンの抗議のアクションはミャンマー民衆を勇気づけたが、同時に本人の身に危険が迫った。このまま帰国すれば、空港で逮捕されて下手をすれば獄中で、殺害される。
政治亡命を決意し、難民認定を受けたピエリアンは、オシムを日本に招聘した祖母井秀隆が指導する淑徳大学でトレーニングを重ねていた。そこに勇人が来てくれていたことがあった。
ピエリアンは全身にタトゥーを施している。学生選手を怖がらせたくないとの気持ちから、「これはミャンマーの文化なのです」と汗だくになって説明していた。国家の暴力に対しては大胆な行動をとったGKも初めての環境の中で大きな緊張に包まれていた。
そのときだった。勇人が「そんなの全然、平気っすよ〜、俺なんか〜」と袖を捲りあげて、二の腕に彫ったった息子の名前を見せてくれた。異国で生きていこうとする難民選手を気遣うその優しさが嬉しかった。
その後、ピエリアンはJ3のYSCC横浜の練習に参加することになった。埠頭にあるクラブ事務所に受け入れの挨拶に行くと、入り口にオシムの大きなポスターが貼ってあった。「これは上手くいくのではないか」と気持ちが明るくなったのを覚えている。
案の定、難民ヘイトもかまびすしい中、オシムサッカーに心酔していたというSCC横浜の吉野次郎代表は、ピエリアンの境遇を理解し、フットサルチームのメンバーへの選手登録を進めてくれた。そう、オシムもまたボスニアからの難民であった。(現在、ピエリアンアウンは現役を引退し平和アンバサダーとして活動している)
しばしば、オシムの生涯を「寛容と多文化へのオマージュ」と記したが、その生き方が日本のサッカーファミリーの中に息づいていると思えたものである。