世間の言葉に対する免疫力が下がってきている

村本大輔が考えるジョークと差別の境界線。「世間の言葉に対する免疫力が下がってきている」中、コメディアンのあるべき姿とは_3

俺が子供の頃にハンバーガー屋さんに行って、ハンバーガー一つしか頼まなかったときに、店員さんに「えっ、以上ですか?」って言われたことがあって。  

ハンバーガー一個だけじゃあかんのか…って疑問に思って、俺悪いことしたんかな……って、ちょっとコンプレックスにもなって。

だけど大人になった今、そんなことがあっても、別に何も思わんやん。自分は何者かだっていう自信みたいなものがあるから。

でも例えば、大人になっても自分が何者なのかわからない、ずっと自分がわからない不安の中にいるときって、子供の頃の俺のように、ずっと些細なことで傷つき続けるんじゃないかな。

自分が何者なのか、自信を得ていく過程で初めて脈々と強くなっていくもんなんだと思う。

コメディーにおいての言葉もそう。『傷つきやすい時代』とかって言われているけれど、世の人たちの言葉に対する免疫力も下がってきてんじゃない?

傷つくってなんなのかな……ってたまに思う。難しいけど、向き合っていきたいよね。

――以前、村本さんから聞いた言葉で、「言葉自体に罪は無いのに、使う人が悪意を持って使ったり、禁止用語を増やして過剰に制限をするから、言語自体がとても窮屈なものになっている」と仰っていたのをよく覚えています。

いやほんまそうよ。

例えば俺の知り合いの子供は、まだ五才くらいなんやけど、家族からはブサイクって言われてて。でも俺は可愛いと思ったから「可愛いやん」って言ったら、その知り合いに「馬鹿にしてんの?」って言われてん。

だから『可愛い』って言葉も、その瞬間の誰かにとっては人を馬鹿にする言葉に変わったりするわけよ。

言葉は捉え方や投げ方で変化するもの。だからと言って、言い方さえ変えたらいいというのは安直な考え。表面だけ綺麗にしたつもりで、これもまた、コンテクストを見ていないと意味がないわけで。

例えばこういう、わかりやすい飛沫防止パネルとか、形だけ『やってる感』を見せてるコロナ感染防止対とか。大事なのは『やってる感』じゃなくて、もっと本質的なことでしょう。

言葉にしても、それが表面上の『やってる感』なのかどうか、しっかりと見極めないといけない。

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文/金愛香 撮影/U-YA

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