「スキークロス」というスポーツをご存知だろうか。4人の選手が同時にスタートし、ウェーブやジャンプ台、バンクなどのセクションをダイナミックにクリアしながらハイスピードでゴールをめざすフリースタイル・スキーの種目のひとつで、2010年のバンクーバー大会以来、冬季オリンピックの正式種目にもなっている。
アクションスポーツ的要素も備えたスリリングな競技性から、スノーボードクロスとともに近年ヨーロッパを中心に飛躍的に人気を高めている。そのスキークロスにさらなる可能性を見出し、一念発起、今年アルペンスキーから転向したのが新井真季子選手。
三度の前十字靭帯断裂など紆余曲折あったアルペンスキー時代の経験を力に変え、新しい競技でいまだ果たせていないオリンピック出場をめざしている。そんな彼女が苦難の道のりとなったこれまでのキャリアも振り返りながら、スキークロス挑戦に賭ける思いを語ってくれた。
根っからの「負けず嫌い」。誰よりも速く滑りたくて、
勢いでヨーロッパ留学も決めた
――岐阜県の高山市出身の新井選手にとって、スキーは幼い頃から最も身近なスポーツだったそうですね。
父が地元のスキー場関係の仕事をしていたこともあって、2〜3歳の頃からスキーをやっていました。小学生になってアルペンスキーを本格的に始め、学校が終わったらすぐに宿題を終えてナイターを滑りに行くという生活でしたね。
――当時はどんな思いでスキーと向き合っていましたか?
常に4歳上の姉より上手になりたいという気持ちで滑っていました。とにかく負けず嫌いだったので、大会に出始めてからはよりいっそうその気持ちが強くなり、試合で優勝することがスキーを滑る上での何よりの楽しみでした。
――中学3年生で、単身ヨーロッパへ。
小学5年の頃に海外の大会で入賞できたことをきっかけに、将来は世界の舞台で活躍できるスキーヤーになりたいと思うようになりましたね。中学2年の頃、高校はどこへ行こうかと考えていたときにコーチからオーストリアにスキーの育成専門学校があると教えられたんです。
――中学生だった新井選手からすると、渡欧してからはいろんな苦労があったのでは?
勢いに任せて留学を決めたのですが、実際に向こうに行くといろんな壁にぶち当たりました。とくに言葉の壁は大きく、「あれ、私やばいかもしれない」って、入学式からすでに泣いていました(笑)。
オーストリアの人々が話すドイツ語は、アクセントが独特で授業を受けていても先生が何を話しているのか本当に理解できなくて。今のようにオンラインで簡単に日本にいる友人や家族と話せる環境でもなかったので寂しさもありましたね。
――その苦悩や寂しさをスキーに打ち込むことで打ち消していったわけですね。
学校の成績が良くないと当然進級ができず、トレーニングも満足にさせてもらえなくなってしまうので「このまま日本に帰ったらすごく怒られるだろうから、まずは勉強を頑張ろう」というくらいのスタンスで開き直るようにしました。
そこからはオーストリアで完全な寮生活に身を置きながらスキーに没頭。今思えばあっという間の4年間でした。