喜怒哀楽にハマり切らない曖昧なものが好き

––––でも、その乖離が新鮮で面白い。例えば「同じフレーズでも微妙にメロディーラインやコードを変えるべートーベンの曲」と「時の流れと共に少しずつ変貌する故郷」を同じ線上に並べる話とか。かけ離れすぎていて、なかなかそこは結びつかないです(笑)。

そこはもう勝手に結びついちゃう。買い物で、この食材とこの食材を合わせたら、この料理ができるかなと考えるのに近いのかも。僕は料理の組み合わせはできないけど、「べートーベン」と「故郷」をつなぐ橋を作る「土木技術」は好きなんです。

ただ、これは創作においてはいい作用をするけど日常生活、例えば恋愛においてはややこしくなる。
具体的な現象としては電話の向こうから聞こえた相手の何気ない相槌と、以前、嫌なことが起こる前触れだった別の人の相槌がふと結びついてしまうとか。「これはあのときの相槌と同じ周波数だぞ」って。

「ずっと、ぬかるんでいたい」48歳のふかわりょう、五十にして天命を知る?_2

––––別れの話の予感的な? 

そう。実際は違うかもしれないのに勝手に昔の記憶と結びついて、起きてもいないストーリーに感情が支配されてコントロールがつかなくなってしまう。だから大変です(笑)。

他にも、中学時代、からかわれると「やめろよ」って肘で押す動作をするAくんって子がいたんだけど、しばらく彼のことは忘れていたんですね。でも去年、雨上がりの夜、道のド真ん中にいたカエルを動かそうと思ってちりとりでツンツンってやったら、「やめろよ」って動作をして。その瞬間「Aだ!」って(笑)。

––––ははは(笑)。
 
そこで、中学時代のAくんが発していた圧とカエルが重なっちゃったんですよ。で、そこから文章が始まったりするので創作においてはすごくいい影響がある。

バラエティ番組でも、その回路が武器になったりもする。でも同時にややこしいこともあるので、結局「ひとりで生きると決めたんだ」って言わざるを得なくなるわけです(笑)。

––––でも、そういう日常の些細な瞬間に目を向け積み重ねていくとメンタルの可動域が広くなって。いろんなことに心が動き感動しやすくなる気がします。

確かに、喜怒哀楽のわかりやすい枠にハマらない、曖昧なところに位置するものは僕は好き。泣くだけが感動じゃないし、あははって声を出すだけが笑いじゃない。映画にしてもじんわり体が温まるぐらいのものが根底では好みだったりもします。

だからタモリさんのように、なんでもない坂道で感動できる人って憧れなんです。そこには想像力が必要かもしれないけど、そういう人って多分幸せだと思うし豊かだと思う。僕もそうありたいです。