「見せられてしまう」ことから始まる想像力
ただし、本作は、生者たちのあいだのその壁については、乗り越えようと試みます。それは、「見せる」という方法論によってです。
小説版を読んだとき、東京からすずめの生家へと北上していくなかで、なぜ途中で高速道路を降り、一般道で行くのかと疑問だったのですが、実際の映画を観ると、この道のりを辿り、廃墟となった町や、巨大な防潮堤を「見せる」ことこそが重要だったのだと納得します。
このオープンカーの旅自体が、すずめにとって(そして観客である私たちにとっても)扉を閉めるための儀式のはじまりなのです。
本作において扉を閉めるためには、廃墟となった場所にかつて営まれていた日常を思い出す(聞き取る)必要がありました。すずめが行うのは、自分自身の被災だけではなく、すべての被災地を思い出そうとすることです。
それゆえに、前述のマクドナルドのCMがすごいのです。すずめは被災者として何も特別ではないのです。すずめは、被災者の誰でもありうるのです。本作は、喪の経験という、個人的であり、同時に普遍的である経験を語る作品です。
すずめは主人公ですが、一方で名もなき個人であり、すずめと同じように大事な人を震災で亡くした経験がある人たちは多く存在します。すずめは何も特別ではなく、でもその特別でなさこそが、すずめの物語を、私たちの物語にしてくれます。
本書が繰り返し語ってきた新海誠の「棒線画性」は、『すずめ』において、観る人みなを想起と想像に誘い、他人事にしないようにするのです。
「見せる」こともまた、その一環です。拙著では、新海誠の作品の特徴を説明するのに、ロシアの映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインの理論を紹介しました。
エイゼンシュテインは映画というメディアにおいて、観客に対して「拳で殴るように」直接的に作用を及ぼすことを夢見ました。新海誠の「軽薄さ」――過度なシンクロやねっとりとしたフェティッシュ描写――は、観客の生理的な反応を引き起こすことで、作品世界に観客を取り込んできました。
前述のとおり、『すずめ』は小手先の軽薄さで観客を惹き付けることをやめ、重厚さによってすずめの冒険を追体験させる方法論を選ぶわけですが、一方で、本作にもし「強制的な」ところがあるとすれば、震災のことを見せるその手つきにあるといえるでしょう。
本作は公開前に、緊急地震速報を模した音が鳴ることを「注意喚起」をして話題になりました。突如としてフレームインしてくる福島第一原発もそうでしょう。本作は、「見せられて」しまうという意味での暴力性を孕んでいます。
すずめの生家の近くにある扉から入った常世の描写も驚かされます。そこは、12年経った今でも、災害の当日のように、燃え続けているのです(震災当日の夜、燃え上がる海と町の映像を観たことを思い出す人も多いと思います)。
巨大化したミミズの姿は、津波を思わせます。少し前、それこそ『君の名は。』公開の頃であれば、まだこういった描写は難しかったのではないかと想像します。そういう意味では、新海誠がこのように真正面から震災描写に取り組むためには、時間が必要だったのかもしれません。いずれにせよ、『すずめ』を観ることは、災害を「見せられる」経験であるのは間違いありません。
見せられる経験によって、『すずめ』はさらなる深みへと、扉を閉める=追悼する儀式へと、私たちを誘っていきます。
その最後の仕上げとして重要なのが、「閉じ師」である草太です。近年の新海作品には、巫女的な存在が常にいました。日常的なスケールからはみ出した力を宿してしまう登場人物です。本作では草太が、猫のダイジンによって椅子に変えられ、要石の役割も移転させられることによって、そのような存在となります。草太は本作において、死者の世界である常世に最も身を浸します。
私が本作で最もハッとさせられたのは、草太の走馬灯的な映像です。草太は、要石になっていく過程で、すずめの姿を、その旅路のハイライトを見ます。死にたくない、生きたい、という思いとともに。ここでの草太のビジョンは、おそらく、死が迫ったときのすずめの母親のビジョンでもあるように思います。
すずめに対する思いを抱えながら、死の世界へと旅立ってしまった、その最期の瞬間の想像です。草太の経験を通じて、私達が見せられることになるのは、死者たちの世界を、絶対に壁を乗り越えることができないことはわかりつつも、なんとか可能な限り肉薄しようとする行為であり、死者のビジョンを想像することです。
重要なのは、草太は「当事者」ではないということです。しかし、閉じ師として、見えているものの向こう側を想像しつづけていました。だからこそ、「当事者」であるすずめとともに、犠牲者たちの最期の姿を、3月11日に無数に発せられた、永遠の別れとしての「行ってきます」を、共有することができるのです。