『すずめの戸締まり』は、地に足がついている

『すずめ』からは、映画として「分厚い」印象を受けます。これまでの新海作品は、人によっては「軽薄な」印象を持つ演出などがされていました。

たとえば、映像と音楽を過度にシンクロさせたり、一度聞いたら頭から離れないフックの強い言葉をチョイスしたり、まるで人間が書き割りのような描写がされていたり(だからこそ、何も特別ではない「私たち」の姿を観客は新海作品に見出してしまうわけですが)、なんだか妙に生々しさを感じさせるフェティッシュな設定があったり、知性よりも本能や生理的反応のレベルに働きかけるような方法論(拙著では、それはまさにディズニーが1930年代に見出したアニメーションの「秘術」であるということを示しました)で出来上がっている部分もありました。

しかし、本作においては、そういった特徴が驚くほどに抑制されているのです。

たとえば、『君の名は。』や『天気の子』で、人によっては気になってしまっていた数々の性的(に解釈できる)モチーフは、『すずめ』にはありません。

『君の名は。』であれば口噛み酒や胸をめぐる諸々を通じて三葉に対して性的な目を向けさせるような描写がありましたし、『天気の子』でもヒロインの陽菜や、主要登場人物の夏美に対するセクハラめいたセリフや眼差しなどがありました。対して、高校2年生のすずめには、まったくそういう描写がありません。

新海作品といえば、フレーズの強さが印象的です。『君の名は。』以降、音楽と主題歌を担当しているRADWIMPSも、それに負けじと、「前前前世」や「愛にできることはまだあるかい」といった一度耳にしたら離れないようなフレーズを連発していましたが、本作ではそれも控えめです(そのかわり、ゲーム・映画音楽の世界で活躍する陣内一真と組んだことにより、RADWIMPSの音世界は、音響としての重厚さと壮大さを獲得しています)。

『君の名は。』『天気の子』が青臭いほどの瑞々しさを放ち、それによって世の若者をフックに引っかけていたとすれば、『すずめ』において、表面的なキャッチーさは一歩退いたような印象を与えます。

かといって新海誠が本作でそのユニークさを失ったかといえば、違います。映像全体は、過去作品と比べても断然に力強くなっています。その力強さは、「地に足をつける」ような物語やモチーフの選択と響き合います。

女子高生と椅子が日本全国を駆け回る旅は、2時間にまとめられるべく緩急なしで加速するように進んでいきます。扉や鍵を開ける・締める動作が印象的です。

扉の開け締めは『君の名は。』でも多用されていて、並行する2つの世界の切り替わりの合図となっていましたが、本作においては登場人物たちを前に進めていくための動力となっています(それが最終的に、「未来を恐れない」という本作のテーマにもつながっていくわけです)。