極端に乾いた文体に持っていった理由
――乾いた語り口が、これまで書かれてきたエッセイなどとはずいぶん文体が違うように感じて驚きましたし、結末の美しい言葉にすごく感動してしまいました。
そこまで詩人としての才能なかった母の、不器用な詩。主人公の彼女にとってだけ意味を持つ言葉みたいなものを最後に置いておきたかったので、それが印象に残ってもらったのはうれしいです!
文体なんですけど、物語の向かうところが死。なおかつ舞台が歓楽街。そう言うと、すごく刺激的で湿っぽい題材を扱っていることになりますけど、でも「そこに流れてるこの人の日常は意外と淡々としたものだよ」という感覚を、文体で醸し出してみたいと考えていたんです。だから、なるべくきらびやかじゃない文体を探して、ここまで極端に乾いたところに持っていったっていうのはあります。
文章を書くときって、私は文体を考えるところから始めるんですよ。たとえば『身体を売ったらサヨウナラ』とか、『非・絶滅男女図鑑』などでは女子が集まってしゃべってる雰囲気を切り取ったようなものにしたいと考えていました。
その本の色って、まず文体で変わるじゃないですか。ある意味で、文章の内容よりも物を言うと感じているんです。それはたぶん、私が若いときから、井上ひさしさんとか橋本治さんとか、文体の達人みたいな人たちにすごく憧れていたからなのですが。だから、文体をまずつくって、それで扱っている題材によって語尾のリズムとかを意識していくことは、習慣としてありますね。それはそれで楽しかったりしますし、その辺はカメレオン的でありたいなと思っています。
――創作と、ノンフィクションやエッセイとでは文章といっても書き方が違うのかなと思うのですが、そんなハードルなどなくて軽々と行き来していらっしゃるように感じました。
小説自体はずっと書きたいと思っていたんです。ただ、自分自身が読者として小説が好きだったので、ハードルはわりとありましたよ。思い入れがあるだけに、逆に腰が重くなってしまっていました。
ただ、書くことを仕事にしたのは新聞記者が最初ですけど、その後もフリーになってからはエッセイや書評とか、どちらかというと批評文のようなものが多かったと思います。それはそれで好きなのですが、そこに書ききれないものもあって。
たとえば音が積み重なってく感じとかって、なかなか短いコラムの中では消化できない表現だったりするじゃないですか。特に新聞記事とくらべると、記事の場合は、事実をわかりやすく短く羅列していくことが大事。基本的には「空気感をつくる」みたいなことはないですよね。でも、そうじゃない曖昧な領域みたいなものの描写って「フィクションが負うべきところかな」って思うんです。
新聞記事では曖昧なことはあまり書けないですけど、世の中、だいたいが曖昧なことでできているような気がする。だからこそ、小説が負うべきことはたくさんあるように思っていました。それがようやくひとつかたちになって安堵しています。
物語の主軸は母と娘の関係で、テーマとなっているのは女の体が負ってしまう値札みたいなもの。だから「女の人には伝わりやすいかな」と考えていたのですが、でも、意外と男性の読者の方にも、いろんな解釈で読んでいただいていて、面白いと思ってもらえる人もいるみたいで。こういう読者さんの反応は、小説ならではだなと感じて、すごくうれしいですね。
文/堀田純司 撮影/井上たろう
「セックスを愛の行為と思う場合もあれば、“私の一番の商品”ととらえる人もいる」夜の世界も昼の社会も知る作家・鈴木涼美 はこちら