自然の中には十全な刺激がある

おおた じゃあなんで自然の中に十全な刺激があると言えるのか。端折って言いますけれども、「個体発生は系統発生をくり返す」と言われるように、『エミール』のルソーにしても、『森の生活』のソローにしても、人間の知的な成長っていうのは、人類の知的な進化を追体験することにあるというんですね。

だとすると幼児って原始人の段階なんです。だから原始人と同じ環境に置いてあげればいいんです。「東京じゃ無理よね」みたいな発想になりがちだと思うんですけど、いやそうじゃないんです。

「日本の劣化」を食い止めるカギは「森のようちえん」にある!?  宮台真司×おおたとしまさ_4

本の結論を言ってしまうと、自分の中にある自然性と外にある自然との一体感、共鳴性みたいなものに気づけるひとになりましょうよという話です。それが、先ほど言った共同身体性とかとおそらくつながってくるところ。それが森のようちえんの本質だろうと思っています。

森だけではなくて、畑やたんぼなどの里山の風景の中で過ごす森のようちえんも多くあります。森のようちえんというよりは里山のようちえんなんです。この里山という環境に豊かな意味があると僕は思っています。

西洋的な自然観でいうと、人間の社会とワイルドな自然が対比されてしまうと思いますが、日本の里山はそのふたつの要素がオーバーラップするところです。要するに、垣根なく、里つまり人間社会にも行けるし森にも行ける存在として過ごせるわけです。

この本と『ポストコロナの生命哲学』(集英社)という本を題材に生物学者の福岡伸一先生と対談させてもらったときに教えていただいたことなんですが、人間はピュシスとロゴスのあいだをたゆたう存在であると。ピュシスというのは人間社会を含む宇宙全体としての自然です。ロゴスというのは言葉、論理。人間はロゴスの力を駆使することでピュシスの中に社会をつくりあげました。

人間の中にもピュシスはあって、性愛ももちろんピュシスだし、「ウンコのおじさん」つまり排泄もそうですよね。感情の動きもピュシスなんだと思います。宮台さんがよく現代社会における「感情の劣化」を指摘することとも通じていると思うんです。

宮台 感情も降ってくるものですからね。アリストテレスは感情をパトス(pathos)と呼んだけど、そもそもパトスという言葉の意味が「降ってくるもの」という意味なんですね。受動態(passive)という言葉と語源が同じです。

古代ギリシア人にとっては、天変地異もパトスだし、そこに山や川があるのもパトスだし、感情が訪れるのもパトスでした。パトスにおいて、ひとは主体というより客体なんです。

おおた でもロゴスはピュシスを覆い隠そうとする。排泄物は水洗トイレで流してしまう。死体は火葬場という日常からは隔離された場所で燃やす。水着で隠すプライベートゾーンというのはピュシスがあふれ出るところです。

もちろんロゴスは悪いものではなくて、ロゴスがあるから僕たちは安心・安全を手に入れたし、人権をもつことができたし、民主主義のようなものも発明できた。その延長上にいま「メタバース(仮想世界)」も実現しようとしている。

宮台さんはいろいろな番組に出演して、このメタバースが新たな権威主義に結びつく危険性を指摘しつつ、そこへの対抗手段として森のようちえんをあげていましたよね。そういう論理展開をしたひとっていままでいなかったんじゃないかと思います。

宮台 そうだよね〜。