森のようちえんで育まれる能力とは

おおた 福岡さんは「ロゴスに閉ざされてはいけない。ピュシスの歌を聴け」と言うわけです。

1960年代に農薬による環境破壊の危険性を訴えた海洋生物学者のレイチェル・カーソンは、その遺作で「センス・オブ・ワンダー」という言葉を使いましたが、これもまさに人間様の都合に閉ざされるのではなく、ピュシスの歌を聴けということなんですね。

さらに、『ルポ森のようちえん』の最終章に、教育学者の汐見稔幸先生のインタビューを掲載しているんですが、そこで汐見さんは「内なる自然と外なる自然を共鳴させる。それが森のようちえんの究極の目的である」と言うんです。

「ピュシスの歌を聴け」「センス・オブ・ワンダー」「内なる自然と外なる自然の共鳴」そして、宮台さんの「同じ世界に入る」あるいは「共同身体性」。みなさんが感じている問題意識が、ぜんぶつながっていると思うんです。

前説が長くなったんですが、要するに「森のようちえんで育てれば、有名中学に入れますかとか、将来グローバル企業で活躍できますか」とか、そういう話ではないということです。

宮台 物理学をフィジクス(physics)というけど、もともとは「ピュシス(physis)の学」ということです。だから本来は「万物学」って訳すべきなんですね。ピュシスも「自然」と訳すのは間違いで、「万物」と訳さなきゃいけない。

紀元前5世紀のギリシアでは、エジプトで生まれた一神教がいう「神の言葉」であるロゴスを、敵として意識し、ピュシスと結びついた言葉だけを、維持しようとした。それが万物学です。

ペロポネソス戦争でアテネが負けた頃からギリシアが没落します。それでプラトンは、「ピュシスに開かれた言葉」から、「ロゴスに閉ざされた言葉」に移行しないと、複雑な社会が統治できなくなっちゃうと考えました。

プラトンまでの初期ギリシャでは、万物=ピュシスは「流れ」で、社会=ノモスは「流れに浮かぶ孤島」です。初期ギリシャは、「孤島を生きつつ、流れを意識すること」を奨励していました。

ところが、島がでかくなり、島外から異人がたくさん入って、流れを意識できなくなりました。だから、そんなひとたちに、今度はロゴスを意識させようとした。それがプラトンですね。

わかりやすく言うと、ずっと森の中で遊んできたやつ同士って、すぐ「同じ世界」に入れるでしょう。でも、社会が複雑になると、成育経験が違う大人だらけになって、「同じ世界」に入れなくなっちゃう。

そんな経緯で、プラトンはやむをえず、ピュシスを超えた「イデア」──万物を超えた抽象的真実──と結びついたロゴスによって、人々を統治しようとしたわけです。この歴史的な展開を頭に刻んでおくのが大切です。

おおたさんがドイツの生物学者・エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生をくり返す」という言葉を引いたように、子どものころは仲間感覚と共同身体性だけで遊べます。言葉なんていらない。何かを説明する時に使うだけです。

定住以前、小集団で移動していた遊動段階では、大人もそう生きていたんです。そのころの大人の生き方が、大人がそう生きなくなった後も、子どもたちの生き方としてずっと残ってきたんです。

おおた 言葉が通じない外国人同士でも、子どもはすぐにいっしょに遊びますよね。

宮台 掛け声だけで足りるもん。でも大人になると、言葉や法や計算に縛られる。それを「社会化される」(社会的な存在になる)と言います。定住で大きくなった集団は、人々が言葉や法や損得に縛られないと回らないからです。

でも人類が定住するようになったのは、たかだか1万年前でしょ。つまり「社会化」された大人にならなきゃいけなくなったのは、人類史的には最近なんですね。非常にしょぼい。

おおた しょぼい……。

宮台 持続可能性が確かめられたとは言えないという意味で。

おおた 僕らはいまの社会が当たり前だと思っているけれど、人類史から見たら一時的なバグかもしれないということですね。

宮台 詳しく言うと、「言葉と法と損得」に縛られた定住生活は、それまでにない不自然なもので、続けていると力を失う。だから定住社会には必ず祭りがありました。祭りは「言外・法外・損得外」の時空で、そこで力を回復したんです。

「言葉と法と損得」に縛られた定住を、拒絶して差別された非定住民が、祭りでは呼び戻されてメインプレイヤーになります。人々は、「言葉と法と損得」に縛られると力を失っちゃうことが、ちゃんとわかっていたんです。

定住社会には、力が湧き出す時空=聖と、その力を使う時空=俗が、あります。聖なる時空が失われると、ひとには使える力がなくなります。これが「生きづらい」状態。90年代からの「登校拒否→不登校→ひきこもり」の流れです。

聖の時空は、「言外・法外・損得外」の時空です。一つは、社会にとっての祭りですが、もう一つあって、個人にとっての性愛です。これらを失う流れを、日本の新住民化を含めて、一般に「法化する」「法化社会になる」と言います。

日本では、80年代の新住民化で祭りが失われ、90年代後半からの性的退却で性愛が失われました。それを25年前から言っています。誰も聞いてくれなかったけど、それを示す統計が出揃ったいまは、聞いてくれるようになりました。

「非認知能力がなくなった」と言われるけど、これは機能にだけ注目して歴史感覚を欠いたクソ概念。正しくは「言外・法外・損得外」の「同じ世界」で「一つになる」能力が劣化した。この言い方で、社会の変化との対応関係がわかります。

「言外・法外・損得外」の「同じ世界」で「一つになる」とは、複数の身体が、同じ事物や互いの身体に、同じようにアフォードされ(コールされて自動的にレスポンスし)、互いがそれを弁えている状態。「共同身体性」とも言います。

80年代の新住民化以降、子どもから外遊びが失われ、よそんちとの行き来がなくなり、60年代の団地化で育った頓馬な親に囲い込まれます。それで若いひとの共同身体性がめちゃめちゃ下がり、回復不能な状態になりました。

共同身体性がなくなれば、祭りの微熱と眩暈も、性愛の微熱と眩暈も、体験できなくなり、生きづらくなります。だから、共同身体性の能力を取り戻すしかないということで、性愛と親業のワークショップをするようになりました。

ピュシス(万物)という言葉を使えば、「万物に開かれた感受性を取りし、取り戻した者同士がつながるための実践」です。映画批評では「二人で屋上に昇って一緒に天空とつながり、手をつないで地上に降り立つ」と表現してきました。

おおた この本でも「森の風」という森のようちえんの園長先生が「20世紀末から急激にいのちの感覚の薄れを感じた」って語ってくれています。宮台さんが「街から微熱感が消えた」と言っている時期とぴったりシンクロしてますね。