「女や子どもを殺しているようなてめぇらとは違うんだ」

 当時の奥崎さんとの会話で、何か印象に残る言葉って覚えてらっしゃいますか? 

坂本「あんた、最初から刑務官になろうと思ってなったんか?」と聞かれたので、「とんでもない。親父が死んでなかったらなってないですよ」という話をしました。一応、私は法政の野球部で、プロを目指していましたから。

当時、奥崎さんはすでに10年近く、塀の中に入っていて、僕のような一番下っ端の刑務官の気持ちも分かっていたのでしょう。「上のものにはこう接しろ」とか、「受刑者にはこうしたら嫌われるぞ」とか、親身になって色々な話をしてくれました。

 奥崎さんは刑務所の中では、どんな風に暮らしていたんでしょうか。

坂本 自分の信念は絶対に曲げない方でしたね。あの時は悪徳不動産商殺しの初犯で懲役10年でしょう。そうすると、大阪刑務所の4区というところに行くんです。そこには受刑者が450人くらいいて、ほとんどが殺人犯なのですが、その被害者は女性と子どもが多い。言わば弱い者いじめの加害者ばかりですから、雰囲気がすごく悪いんです。

 ましてや、あの不動産商の事件は「殺す意思はなかった」というのが奥崎さんの主張でしたからかね。

坂本 「俺は、女や子どもを殺しているようなてめぇらとは違うんだ」との思いがあったでしょうから、どの工場へ行っても周囲とうまくいかない。刑務官云々の前に、受刑者とうまくいかないんです。ケンカをしては独居房に入っての繰り返しで、そのうち第3区という、ヤクザ者とかが居る独居房に移ることになって。普通、受刑者は工場に出ていると、1日が経つのも早いし、仕事をするので食事の分量も多いから独居房には行きたがらないんですが、奥崎さんは自ら孤高を望んで独居房に行っていましたね。

――坂本さんが当時の先輩方から聞いた話では、奥崎さんは大阪刑務所で5本の指に入る処遇困難者だったと。暴れれば暴れるほど、騒げば騒ぐほど、処遇は穏やかになり、優遇される。そんな体験から、「出過ぎた杭は打たれない」「国家権力など大したことはない」という境地に至ったんじゃないかと拝察されているわけですが、何千人と居る受刑者の中で当時かなり目立っていたんですか?

坂本 目立っていましたね。同じ処遇困難者でもいろいろいるんです。よその刑務所で刑務官を殺して移送されてくるような乱暴者や、脱獄を企てる者、処遇や刑務官の対応について告訴・告発・国賠訴訟・行政訴訟を繰り返す者、他の囚人を扇動して刑務所の規律秩序を破る者もいました。

でも奥崎さんは、そういうのとはまったく別のタイプといいますかね。本当に頭がよくて、私たち下っ端の刑務官に対して不平不満は決して言わなかった。話せばわかるというタイプでしたね。ただ、幹部職員に対しては好戦的でした。理路整然と論破するんです。特に権力欲、出世欲の強い刑務官には我慢ならなかったのだと思います。そういう意味の処遇困難者ですね。

だから幹部職員は下手な刑務官が奥崎さんと接するとトラブルになると、恐れたのでしょう。「〇〇と××以外は、奥崎謙三とは口を利くな」と指示を出していて、言葉遣いも穏便で、人徳のあるベテランの刑務官を担当させていました。