「絶対に戦争をするなよ」

坂本 うちの父親も貫通銃創していて、夜になると部下が洞窟から海に降りて、ヘルメットで海水をくんできて消毒してくれたというんです。そういう苦労が頭から離れなかったんでしょうね。

 ということは、お父さまは、日本軍が沖縄の民間人をガマから追い出したことなども含めて、良心の呵責をずっと引きずってらっしゃったんですね。そして、奥崎さんとの会話の中で封印していたものが開いてしまったと。

坂本 そう思いますね。うちは男3人兄弟なんですが、8月15日になると、父は子どもたちを全員、座らせて小遣いをくれるんです。そして「絶対に戦争をするなよ」と言うのが毎年の恒例行事でした。

母親の話では、戦争から帰ってきてからは、ずっと部下の遺族のために毎晩手紙を書いていたと。どういう最期だった、とかね。夜になると時々、父親の激しいうめき声を聞きました。悪夢を見ていたんだと思います。選挙のときも自民党には入れなかった。しかし、刑務官自体も国の役人でしょう。しかも法務省に居ましたから、選挙の時には同僚に「俺は共産党に入れたけど、お前、これ絶対言うなよ」と。そういう時代でしたね。

 しかし、刑務官の方が獄中の奥崎さんと意気投合していたというのは、すごく興味深い話ですね。ちなみに『ゆきゆきて、神軍』はご覧になりましたか?

坂本 はい、とにかくビックリしました。私もたくさんのドキュメンタリーを観てきましたが、あんな凄い映画は初めてでした。ただ、奥崎さんとつきあうのは、すごい苦労があったでしょうね。

 苦労と言えば尋常ならざるもので(笑)。とにかくエネルギーの塊のような人ですから、撮影のアイデアも思いついたら早朝でも長電話をかけて来るし、俺のあれを撮れ、これを撮れ、もう映画を止める、フィルムを燃やしてやるとか、散々、振り回されました。まあ、終わってみれば、みんな楽しい話なのでいいんですけど。

奥崎謙三が原一男に送っていた『ゆきゆきて、神軍』Part2の具体的構想_3
原一男/1945年、山口県生まれ。東京綜合写真専門学校中退後、72年、疾走プロダクションを設立。同年、『さようならCP』で監督デビュー。87年、『ゆきゆきて、神軍』を発表。大ヒットし、日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリなどを受賞。近作に『れいわ一揆』『水俣曼荼羅』など

――坂本さんは『ゆきゆきて、神軍』を見て、「出所後に奥崎さんが“本物”になったな」と感想を述べていました。要するに、獄中に居た時の奥崎さんはすでに昭和天皇にパチンコを撃つような、すなわち人間の作った法と刑を恐れずに行動する「神軍平等兵」になるその萌芽みたいなものをすでに持っていたと。

 獄中にいるころから「天皇が戦争責任の謝罪をしていない」という主張は、彼の話の中にあったんですか? 

坂本 多分、父との間ではあったと思います。私は戦後生まれですから、「戦後教育を受けているこいつには分からないだろう」と思われていたでしょうが、父親のことは褒められましたね。それと残念がっていました。「ひょっとしたら俺のせいで亡くなったかもしれない」という気持ちは持っていたみたいです。