プロとは程遠い、下手くそだった駆け出しの頃
中学時代から一人で劇場通いをするほどの映画少女だった戸田さんが、「字幕翻訳者になりたい」という夢を抱いたのは大学卒業間際。一度は生命保険会社に就職したものの、夢を捨てきれず1年半で退職。その後は広告代理店や化粧品会社の資料を英語に翻訳したり、映画会社で映画台本を日本語に短くまとめるアルバイトを経験した。
「当時の字幕翻訳の世界は狭き門どころか、叩くドアすら見つけられない時代。映画会社からしたって、ものすごい金額で買った映画の翻訳を新人にやらせるわけがないでしょ。だからいくら字幕翻訳をやりたいとアピールしても、仕事なんかもらえませんでした」
後に映画評論家や映画監督として活動する、ユナイト映画の宣伝総支配人だった水野晴郎氏からの依頼で、30歳を過ぎた頃から来日した映画人たちの通訳を引き受けることに。そのおかげか字幕翻訳者を志していることを知った別の映画会社から、年に1〜2本、字幕翻訳の仕事が舞い込むようになった。
「下手くそもいいところでしたよ。最初は非常に試行錯誤して、1本やればほんのちょっとだけ上手くなる。そんな感じでしたね。もちろん食べていけるような本数じゃありませんでしたし、とてもとても、プロとは程遠いものでした」
人生が激変したのは、フランシス・フォード・コッポラ監督との出会い。『地獄の黙示録』を撮影中のコッポラ監督は撮影の合間にたびたび来日しており、戸田さんが通訳を任されたのだ。戸田さんの仕事ぶりに信頼を置いたコッポラ監督の推薦により、同作の字幕を担当。こうして本格的に字幕翻訳者としてのキャリアをスタートさせた時には、40歳を過ぎていた。
「ひたすら席が空くのを待っていたら、結局20年経っちゃいました(笑)。そこから年に50本翻訳する生活に突入するんです。本当に一夜にして人生が変わりましたね。依頼があるたびにどんな映画でもはいはい、ほいほいって感じでやらせていただきました。映画が大好きだったし、20年も待ったわけですからね。本当に忙しかったけれど、字幕翻訳に携われることがうれしくて仕方がなかったです」
取材・文/松山梢 イラスト/Chie Kamiya