多くのウクライナ人は両方の言語を話せるが…
歴史を紐解いてみると、18世紀半ばから20世紀半ばにかけて続いたロシア帝国の支配下では、ウクライナ語の使用禁止令が何度も出された。弾圧が続く中で、ウクライナ語を用いることは反革命的行為とまでみなされた。
こうした歴史的背景が現代社会にも暗い影を落としており、両方の言語を話せる多くのウクライナ人にとっては、その選択如何が、今回のような戦時下では死活問題に発展したということだ。
特に東部のドンバス地方では、「ロシア語話者がウクライナの民族主義者たちに迫害されている」とロシア側は主張し、それを口実に同地方での戦闘を正当化してきた経緯がある。「単に言葉を選ぶだけ」に聞こえるかもしれないが、日本人が考える以上に繊細な問題なのだ。
ロシア軍の砲撃で息子を失ったウクライナ人の遺族に取材を申し込んだ時のことである。リュバさんからは事前に、こう告げられていた。
「そのご遺族にはウクライナ語とロシア語のどちらでコンタクトを取っていたのか確認していただけますか?」
第三者を介して遺族を紹介してもらう段取りだったのだが、その第三者が遺族にいずれの言語で連絡を取ったのか知りたいという。キーウではロシア語もかなりの割合で使われていたから、確認が必要だったのだ。
「特に最初のアプローチに何語を使うかは重要です。それによって信頼を得られるかどうかが変わってきますから」
尋ねてみると、その第三者はウクライナ語を使っていた。もしロシア語で取材を申し込んでいたら、相手に不快感を与えていたかもしれない。
ブチャからさらに西へ進んだ街、ボロディアンカは、ロシア軍による空爆被害が甚大だった場所だ。中心部に建ち並ぶ高層マンションは真っ黒焦げで、棟によっては縦に亀裂が入ったように大破していた。