最も売れたのは「辰吉対薬師寺戦」を掲載した1冊

――辰吉さんはその後、絶大な人気を誇るボクサーとなりました。

辰吉さんが表紙のときはわかりやすく売れ行きがよかったですね。少なくとも私が編集長をしていた11年間で最も売れたのは、辰吉対薬師寺戦をレポートした号(1995年1月号)でした。いやあ、あれは爆発的に売れた。海外スターだとマイク・タイソンなんかは東京ドームでの敗戦(1990年3月号)も数字は悪くなかったんですが、顕著に売上に影響していたのは辰吉さんを取り上げた号なんですよ。

辰吉丈一郎の忘れられない言葉を元名物編集長が語る-ありがとう!『ボクシング・マガジン』打って打たれて66年_b
大きな関心を集めた辰吉丈一郎対薬師寺保栄の試合レポートを掲載した号と、マイク・タイソン初の敗戦を伝えた号

――薬師寺戦だけでなく、辰吉さんは90年代にいくつか敗戦もありますよね。それでも人気は落ちなかったんですか?

ほとんど影響なく、ずっと人気があって多少の波はあるものの、売れ行きもよかったですね。勝ち負けを超えて人を惹きつける魅力があったということでしょう。実は社内で、薬師寺戦の直前に発売した辰吉さんの自伝「波乱万丈」の制作を手伝っていたんですが、試合に負けたことで「これは売れ行きが下がっても仕方ないな」とちょっと諦めていたんですよ。

でも、試合後のインタビューでは「薬師寺選手強かった、いろいろ言ってゴメン」と潔く負けを認めて、それがまた彼の魅力を高めることになった。結果、その自伝本も飛ぶように売れました。

――負けても人気が落ちなかった選手というのは珍しいですよね。

そうそう。ラバナレスとの初戦で負けたときも、以前から「負けたら引退」と言っていたので、試合後の控え室も異様な雰囲気で。多くの報道陣が詰めかけていたなか、「辰吉負けた、ザマアミロと書いておいてください」と本人が絞り出すように言ったんですよ。それも意図した言葉じゃなくて、本人の落とし前の付け方なんでしょうけど。言葉に響くものがあるんですよね。それも含めて人たらしというか。

――人たらし。ちなみに、辰吉さんは女性ファンも多かったんですか?

うーん、女性ファンの多さでいうと、鬼塚勝也さんとかの方が人気がありましたね。一方で辰吉さんは「俺のファン女性おらんでー」って笑ってましたけど。

辰吉さんが太陽だとすると、鬼塚さんはもう少し影のあるタイプ。とても頭が良く、自分の持っているものを最大限使って、51:49でもいいから勝ちたいというボクサーだと私は理解していました。辰吉さんは100:0で勝つことを目指す選手で一見するとふたりは真逆なんですよね。でも、鬼塚さんも試合はめちゃくちゃ熱く打ち合うスタイルで、辰吉さんに負けず劣らず見ていて面白かったですね。