19歳の辰吉青年に挨拶をしたらただ一言「ああ」

――原さんがボクシング・マガジン編集部の編集部員となったのは?

大学在学中からアルバイトで入っていたんですが、社員として入社したのは1982年4月ですね。具志堅用高さんが引退して、渡辺二郎さんや友利正さんが世界王者になる直前の頃。その後、1988年から1999年まで編集長を務め、2001年に退職してフリーのボクシングライターになりました。

――辰吉丈一郎さんや鬼塚勝也さんなど、数多くのスター選手がいた時代ですか?

そうそう。他にも高橋ナオトさん、ピューマ渡久地さんや渡辺雄二さん、吉野弘幸さん、坂本博之さんなど、世界王者以外でも後楽園ホールを2000人で満席にさせる人気選手がたくさんいましたよ。

――当時の取材体験で印象深かったのは?

真っ先に思い浮かぶのは、辰吉(丈一郎)さんに初めて会ったときのことですね。1989年の5月かな。大阪で取材中だった渡辺二郎さんに「ところで原さん、辰吉って知ってますか?」と尋ねられたんですよ。私も評判は伝え聞いていたけれど見たことはない。「ちょうどこの後スパーリングをする」というので、せっかくなので帰りの時間をずらしてジムに寄らせてもらって。

で、ジムで辰吉さんと初めて会って。こちらは記者なので名乗って挨拶をするじゃないですか。そしたら、「ああ」と鼻で一言だけ。その生意気さがね、凄く心地よかった。

――え! 不愉快になったわけではなく?

強くなるオーラというか、そういう心地よさがあったんですよね。で、いざスパーリングが始まるとまたビックリしましたねえ。強さというか潜在能力というか。(渡辺)二郎さんはすでに30代半ばに差し掛かっていたとはいえ、当時19歳でプロデビュー前の少年が元世界王者に何度もパンチを打ち込んでいたんですよ。

二郎さんも血を流して、「わしがスパーリングで鼻血を出したのは初めて」と言ってましたから。ボディーも打たれて「うっ」となったり、私は倒されちゃうんじゃないかと思いました。後から聞いた話ですが、それを当時の会長が上の階でモニターを見ながら嬉しそうにしていたとか(笑)。

――これは本物だなと。 

自分もこの目で見て、これは将来絶対強くなるなとワクワクしましたね。で、その調子のまま、スパーリングが終わったあとに「強かったね〜」って再度辰吉さんに声を掛けたら、また「ああ」とだけ。やっぱりぶっきらぼうな返事でした(笑)。

まだ彼がボクシングの世界でヒールになるのか、ヒーローになるのかわからなかったけれど、とにかく良い感触があった。ボクシングが好きで専門誌の記者になったわけですから、そりゃ凄いものを見られて嬉しかったですよ。

辰吉丈一郎の忘れられない言葉を元名物編集長が語る-ありがとう!『ボクシング・マガジン』打って打たれて66年_a
「初めて会ったときは、とにかく生意気さが心地よかったんです」(原さん)