近代が生み出したものは、大衆と民主主義
――一九三六年のベルリンオリンピックも、ハンスたち若者が憧れる要因のように思いました。
柳原 あのオリンピックでは、聖火リレーを始め、ヨーロッパ的な歴史の連続性を上手に利用しています。よく大学生に話すのですけど、ナチズムとムッソリーニのファシズムとが決定的に違うのは、ナチズムはハンスが感動した近代的な先進性だけじゃなく、「聖火」のような前近代的な魅力を混ぜていることです。イタリア・ファシズムのポイントは、テクノロジーや官僚制という「近代」によって全体主義を推し進めようというところにあるのですが、ナチズムは、先進的なテクノロジーに加えて古代ギリシャなどの前近代的な要素を入れたり、オカルティズムのような怪しげなものを混ぜ込んでいる。そこに一種の魅力があるわけで、あのオリンピックにもそれがもろに出ている。
さらに、国際的にナチ体制が非難されないよう、オリンピックというスポーツイベントを利用したということも大きい。いってみれば、今回のサッカー・ワールドカップにおいて、アメリカのプロパガンダ政策の側面があるのと一緒です。平和の祭典を政治的に利用している。
佐藤 スポーツをああやってイベントにするというのも、ナチスが初めてですね。今ではスポーツの大会は、もう小さな地区大会からすごいショーアップされていますけど、それが始まったのはやはりナチスからのように思います。
柳原 それに、あのオリンピックの時期には、国際世論に配慮して反ユダヤ主義的な攻撃を一瞬、緩めるんです。ドイツはそこまでひどいことはしてない、だから平和の祭典をやっているのだ、と。
佐藤 ぼくはプロレスが好きでときどき観るんですけど、プロレスの入場のショーアップの仕方――最近はボクシングなんかもそうですけど――って、ナチスの党大会を想起させるんです。サーチライトで照らして、両選手、入場みたいなところは、親衛隊の入場や突撃隊の行進とそっくりです。
柳原 近代が生み出したものの一つは“大衆”で、高校の新科目「歴史総合」のテーマの一つです。この大衆をどのように動員するか、魅了するかが大きな課題になる。プロレスもそうですけど、ライブなども大衆の塊ですよね。その塊の中にいる自分は、塊の中にいるからこそ気持ちいいみたいな。
佐藤 大衆化ということでいえば、今はプロパガンダという言葉には悪いイメージがありますが、『我が闘争』などを読んでも、ヒトラーは手法の一つとして堂々と使っている。現代の政治家も、そうした悪いイメージを意識させないで、ある種プロパガンダ的な言葉を駆使している。そうしたヒトラーの現代性というのは、書いていても怖いというか、現代につながるさまざまな政治的なレトリックは、ここから始まったんだなというのは強く思いました。
柳原 近代のもたらした“民主主義”に関していいますと、ヒトラーが政権を獲得したときの得票率は約三三パーセント、三分の一です。これは日本の自民党よりもかなり低い。でもヒトラーは元首相のパーペンなどをうまく使って、独裁体制を確立させた。ここから考えられるのは、ヒトラーのような人物が出てくることで民主主義が簒奪されてしまうだけではなく、そもそも民主政はそうした危険性を常に孕んでいて、三割の支持でも独裁体制を成立させることができる仕組みだということです。
佐藤 民主主義というと、どうしてもイギリスやアメリカの二大政党制みたいなものをイメージして、どちらの党も五割・五割に近いところで競い合うような感じですが、実は二大政党制ではない小さい政党がたくさん集まっている国のほうが多いので、三割しか取れなくても他の小さい政党と連立すれば政権を取れてしまう。ひとたび新型コロナウイルスの蔓延といったような危機が起これば、非常事態だということで独裁体制を敷くことまで可能になる。
日本人には、民主主義は絶対的な善だというイメージがありますが、民主主義といってもいろいろな形があるわけですし、常にベストなもの、あるいは理想として民主主義を採用しているわけでもない。現状では、民主主義に代わるシステムをまだ誰も思い付いていないので、次善のものとして民主主義を使って世の中を動かしているだけであって、絶対的に神聖視できるようなものではないのだということは、改めて考えなければならないと思います。
特に戦後の日本でいえば、アメリカからの影響が強かった。かつてのアメリカには民主主義がうまく働いているイメージがあったのですが、近年のアメリカを見て、アメリカの民主主義が理想とはとても思えない。その意味では、そろそろ民主主義に対する通り一遍の発想から抜け出す時期に来ているのかなとも思います。
歴史的想像力が戦争を止める言葉を生む
――歴史を知ることで、戦争が続く世の中の流れを変えていくことはできるのでしょうか。
柳原 先に歴史的想像力に関して、フィクションの役割が大きいといいましたが、たとえば過去を伝えるときに、そこには現在との時間的な距離があります。アライダ・アスマンという研究者がいうには、時間が経過するにつれて、コミュニケーション的記憶から文化的記憶に変わっていく、と。コミュニケーションは互いに生きていないとできないけれど、記念碑や文章などで「文化」となり、同時に歴史化(ドイツ語でHistorisierung)されて、一定の距離を置きながら考えることができる。これが時間的距離の利点です。しかし、それを単なる情報として冷静に処理していくだけでは駄目なのではないかと思っています。人間は感情的な生き物なので、情報と感情を車の両輪として考えなければいけない。
その感情、好奇心を補佐してくれて情報収集の動機を与えてくれるのは、やはり小説やアニメ、マンガなんですね。歴史研究者は、小説はフィクションだから歴史小説を鵜吞みにすると危ないという。一方、歴史小説を書く人は史実に囚われすぎるとストーリーとしては面白くなくなるから一定の距離を置く、という微妙な対立関係があるとよくいわれます。そういう緊張関係は常にあっていいと思いますが、もう少し話し合いくらいはしようよっていうのが私の今のスタンスです。だから今回、この小説のお手伝いをお引き受けしました。そして、いろいろな知見が得られて本当によかったです。また、ことに近年、AIによって情報を効率よく取得することができるようになっていますが、そこにあるのは単なる「モノとしての情報」だけで、感情や好奇心が介在していません。
佐藤 そうですね。小説であろうが哲学であろうが歴史であろうが、最終的に何を求めるのかというと、多分ストーリーが欲しいのではないか、と思います。なぜストーリーなのかというと、それは柳原さんのおっしゃる、感情がどういうふうに動いていくかが分かることが大きいのでしょう。おそらく小説というアプローチからいっても、歴史学であるとか社会学であるとか、いろいろなアカデミズムのアプローチからいっても、最終的にストーリーとかフィクション、想像力ということを考えなくてはいけなくなるのは、人間が求めるものが、実は構造を図式化したものではなく、ストーリーだからなのではないかというのは最近、すごく思います。
柳原 つまり、歴史観ということですよね。歴史観はストーリーとは少し違うかもしれませんが、歴史観に関しても歴史学の研究者は距離を置いてるし、危ないものだと思っている向きがある。でも、私たち研究者も小説家の方も一緒になって、みんなでちゃんと歴史観に向き合ったほうがいいと思うんです。
そもそもヒトラーは『我が闘争』の中で、歴史にとって重要なのは個別に何が起きたかとかではなくて歴史観である、ということを書いています。その後の帰結を見れば、ヒトラーは己の歴史観に従って、ホロコーストも含めていろいろなことをやっていったわけですが、それを危険だといって無視するのではなく、だからこそ歴史観にちゃんと向き合わなければいけないという思いが、今の私には強くあります。
佐藤 それは、本当に難しいですね。フランス革命以降、貴族主義というのは民主主義との対置概念で、廃されるべきものであるといわれてきました。ところが今の大衆化の時代になってみると、貴族主義というか、自分は特別な人間である、エリートであるというような自意識が、ある政権が暴走する歯止めになる可能性もあるような気がします。
本作の中で、ヒトラーに反抗する人は、みんな〈フォン〉がつく人(編集部注:当時、フォンの称号は王侯貴族のみにつけられた)です。彼らとしては、一般の市民たちはヒトラーに浮かされているかもしれないけど、俺らは違うよ、という意識がある。へそ曲がりでも天邪鬼でもいいんですけれど、ある政治家が威勢のいいことをいって国民が浮かれてるときに、いや、それは違うとあえていうぐらいの精神性が、この二十一世紀には逆に求められているのではないか、と。
柳原 要は、個人なら気概、社会全体ならエートスの問題ですね。ノブレス・オブリージュ、高貴なる義務とかもそうですけど、たとえば日本の場合、私より上の世代では、いわゆる「地方」の人が大都市圏の有名大学に受かったときには、卒業したら地元に貢献しようみたいな気概というのが結構ありました。
そこにはその地域に連綿と続いている伝統、伝統っていうとちょっと陳腐かつ危険に聞こえるかもしれませんが、要は歴史意識です。その歴史意識の継承者という自負を背負って大都市圏に出て行くわけです。一時期なぜ司馬遼太郎の小説があれだけ読まれたかというと、司馬史観には、そうした歴史意識を気概やエートスとして持たせてくれる力があったからだと思います。
佐藤 さっきの貴族主義もそうですし、地域の代表もそうですけども、みんな何かを背負うんですね。先祖がやったことを背負うとか、地域がやってきたことを背負うとか。そういう人間が持つアイデンティティー、あるいは発想の方法、思考の方法というのが、実は大事なんだと思います。
柳原 大衆を動かすという視点で考えると、ヒトラーの時代に映画やラジオが普及してメディア環境ががらりと変わったことは大きいです。現代もインターネット、そしてショート動画が広まるなど、百年前と同じくらいの大変革が起きている。しかもそのシステム自体を主にアメリカの限られた企業がつくっている、という。この状況を決して楽観視することはできません。
第一次世界大戦の破局後、ヴァージニア・ウルフは、今後戦争を阻止するためには、男性社会の論理や方法を繰り返すのではなく、「新しい言葉を見つけ、新しい思考方法を創造する」(一九三八年発表の『三ギニー』より)必要があるといいましたが、まさにそうだと思います。
佐藤 今、大学では理系は偉いけど、文系はどうするんだみたいな感じでよくいわれますね。でも、もし今後日本が戦争に行きそうになったときに、止められるのは文系の学者だと思います。理系の人たちにはデータがあったり、数値があったり、グラフがあったりするのだけれども、戦争を止める言葉はない。
その言葉をつくれるのは、やはり主には文系の学者や学生だと思うし、そういう人たちにしっかりしてもらわないと、一直線で戦争に行ってしまう危険性が現実味を帯びてきているような気がします。
柳原 何度もいいますが、そこにはやはり歴史的な想像力が必要とされると思います。是非この『小説 ヒトラー』で、歴史的想像力を養ってもらいたいですね。
「小説すばる」2026年11月号転載














