事実を分析する歴史学と人間を書く歴史小説
――柳原さんには「小説すばる」の連載時から本作をお読みいただいていました。事実としての歴史と、フィクションが描く歴史との違いをどのように考えていらっしゃいますか。
柳原 私の研究テーマは「空襲・空爆」で、都市内部の民間防空団体の組織化・動員・活動を分析しています。研究では、誰々は何を食べたか、何を話したかといったディテールはないんですね。小説は、その辺りを台詞とともに埋めていく。そこが決定的に違っていて、だから今回、こういう形で関わらせていただいて――私としては「監修」というのは畏れ多くて、コメントを出したに過ぎないのですが――、とても勉強になりました。
佐藤 結局、フィクション、小説というのは人間を書くものだと思うんですね。だから、歴史学者と同じ事実を出してきても、それを通してぼくが書きたいのは「人間ってこういうものなんだ」ということなんです。ヒトラーであれば、二十世紀の前半から中盤にかけて生きたわけですけれど、その時代を超えて、疎ましいところ、嫌なところを含めて彼の人間としての普遍性を引っ張り出して書くというのが小説だと思っています。
それに対して、歴史学でヒトラーあるいはエン・エス(ナチス)を扱う場合は、二十世紀の前半にこういう人物がいて、こういう組織があり、こういう時代があったという一回きりの事象を他の時代と比較しながら書くということだと思います。そこの違いは常に意識していますが、ヒトラーがその時代の状況の中でどういう行動をどうして取ったのかという歴史的なところも分かっていないと普遍的なところも書けない。ですから、歴史学の研究を常に拠りどころとしています。
柳原 今おっしゃったことに関わらせると、歴史学で扱う過去は一回きりなんです。ただ昨今、日本の歴史教育が刷新されて「歴史的な思考力」が問われるようになってきました。歴史的な思考とは、史料を歴史の前後関係などから、いかに文脈づけるかという能力です。
私たちがやっている歴史学というのは、まずは史料をたくさん集めてくることがベースになります。史料を一本一本の木にたとえると、木をたくさん集めてくれば林や森が出来上がる。ここまではコレクター、コレクションしてるだけです。けれども、その「森」にどこから入って、どこを通れば森の出口にたどり着けるのかという問いを立てる。その出口、つまり結論を出すために文脈化を行い、その中から歴史的な概念や傾向を引き出してくる。たしかに過去は一回きりなのですが、この文脈化によって普遍的な概念が引き出されることもある。
サム・ワインバーグというアメリカの研究者が『歴史的思考 その不自然な行為』という本の中で、基本的に歴史的に思考できる人は人類のほんの一握りだと書いています。つまり、過去の事象を文脈づけて考える歴史的思考というのは極めて特異な思考法だということです。私は、この思考法を支えているのは、歴史的な想像力だと考えていて、さらに過去に関心をもつ動機の多くも、たとえば佐藤さんの小説から生み出される歴史的想像力だと思います。
私はこれまで、まず史料を集めて、そこから論を立てて問いとそれに対する応答を書くということをずっとやってきたわけですけど、今回の小説を読むと、想像力が搔き立てられ、歴史学へのやる気が増幅されたのです。歴史的想像力と歴史的思考は車の両輪で、歴史的想像力がないと歴史的思考もできない。この点は研究でも教育でも見過ごされてきたと思います。つまり、感情的な過去への興味の入り口はやはり必要で、その感情を刺激してくれる存在として、この『小説 ヒトラー』があり、この点、本当に感動しましたし、関われてよかったです。
戦後のイメージを排し、当時の目線でヒトラーを書く
――佐藤さんご自身は、ヒトラーを書くに当たって、どこが出発点になったのでしょうか。
佐藤 ヒトラーが死んでから八十一年経ちますが、まだ過去になりきっていない過去だと思うんですね。非常に現代性が強いので、一面で書きやすくはあるのですが、他面では、歴史的な存在としてきちんと位置付けなくてはいけないという難しさもある。そういう意味で、今までやったどのテーマよりも距離の取り方が大変でした。
ナポレオンも、長い歴史の中ではだいぶ近い時代の人ですが、やはり現代とは違う。ヒトラーというとホロコーストの話を避けることはできませんが、ナポレオンもかなり多くの人の命を奪っている。ただ、人の命を奪うという感覚が、ナポレオンとヒトラーの時代では違う。書く際にも、ナポレオンは違う感覚の持ち主だということで距離を置いて書けるのですけれど、ヒトラーだとなかなかそうはいかない。その近い時代の恐ろしさというか現実のシビアさというか、そこが書きどころでもあったし、難しいところでもありました。
柳原 その時代の距離と感覚の違いという点に関して、今回の小説ではヒトラーユーゲントから後に親衛隊に入隊するハンス・ノルトバウアーという青年の存在が重要です。ハンスは、フィクショナルな存在ですが、ハンスの視点があることで、ヒトラーを支持する人たちの心情なり、ヒトラーによって運命が大きく左右されていく個々人の心の動きがよく分かる。つまり、人が生きていく上で、さまざまな制度やパワー――権力とか暴力とかですね――が関わってくるわけですが、その権力と個人との関係が、ハンスとヒトラーを通してよく見えてくる。
実は、今学期から東京女子大学で新しくパブリックヒストリーという講義を始めたんです。パブリックヒストリーというのは、専門家ではない人たちに歴史をどう伝えていくか、あるいは歴史が世の中にどう伝わっているかを実践・研究するもので、その際に、博物館や図書館、遺跡・遺物などを通しての歴史伝達の分析に加えて、小説、映画、マンガ、アニメなどで描かれた歴史も対象とします。この場合、歴史実践としてのフィクションが重要になってきます。簡単に言えば、フィクションがフィクションだと分かった上での歴史への接近も重要だということ。たとえば映画などであまりにもリアルな描写があると、現実とフィクションの境目が分からなくなってしまう。ハンスというのは、この作品がフィクションだと分かるための重要な役割を担っています。
佐藤 日本もドイツも、あるいはフランスやイギリス、アメリカもそうだと思いますが、戦後、第二次世界大戦についていろいろ語られたことには、割と「うそ」があるわけです。敗戦国の立場だったら自分たちは悪いと分かっていたようなことをいうし、戦勝国の立場なら自分たちの正しさは疑っていなかったという。しかし、そうした言葉は、後からつくられたものなんです。
ドゥ・ゴールを書いたときに思ったのですが、フランスがドイツに占領された際に対独協力をした人たちが結構いたわけですけど、ドゥ・ゴールが帰ってきて新しい政権になると、まるでフランス人全員がレジスタンスをやっていたような雰囲気になる。でも考えてみたら、レジスタンスのような危険なことを誰も彼もがやるわけがなくて、レジスタンスに参加したのはほんの一部に過ぎない。にもかかわらず戦後のフランスは、国民が挙ってレジスタンスを行ったというフィクションの中でずっとやってきた。逆にドイツは、実はヒトラーは間違っていると思っていたんだとか、それこそ一九四四年七月二十日のヒトラー暗殺未遂事件を、国民全員が応援していたみたいな雰囲気になる。
そういう戦後のうそを乗り越えていかないと、この『小説 ヒトラー』は成立しないというのは、意識していました。その中でハンスが非常に重要だというのは、ヒトラーだけではやはりヒトラーを書き切れないところがどうしてもあるからです。戦後につくられたイメージではなく、その当時、リアルタイムにこういうドイツ人がいた、特に悪い人間でもないし、いい人間でもない、普通の人として自分の人生を生きようとした人がいた。そこをきちっと書かないと駄目なんだろうというのは強烈に思っていました。
柳原 先ほどもいいましたが、フィクションだと分かっているからこそ伝わる歴史の本質というのがあります。たとえば十三世紀のモンゴル帝国の後宮を舞台とした『天幕のジャードゥーガル』(トマトスープ・著)や、太平洋戦争末期のペリリュー島を描いた『ペリリュー─楽園のゲルニカ─』(武田一義・著/平塚柾緒〈太平洋戦争研究会〉・原案協力)というマンガがありますね。どちらもかなりデフォルメされたキャラクターですけど、その描写がフィクションという前提を明確化してくれて、むしろ核心的な歴史上のメッセージを伝えています。
本作でいうと、ハンスがナチズムの最新テクノロジーに感動しますが、ナチスの近代的技術の利用、そしてそれに魅了された人びとについて、歴史学的にも研究されています。それをハンスがフィクショナルな存在だという認知の上で、実際に当時の大衆がどういうふうに魅了されたのかが見えてくる、そこがパブリックヒストリー的には重要なのではないかと思います。
括弧付きにはなりますが、ナチズムの「魅力」に関しては、田野大輔さんの『魅惑する帝国』など、いろいろな研究がなされていて、『意志の勝利』(編集部注:レーニ・リーフェンシュタールによる一九三四年の国民社会主義ドイツ労働者党の党大会の記録映画)を観て感動したといった証言や、逆に、動員の失敗についても研究・分析されています。ハンスというキャラクターから書かれるほうが歴史学の重要要素が浮き彫りになるということです。
佐藤 ヒトラーがなぜあれほど支持されたのか、遠目で見ると分からないところがあるのですが、ハンスという架空のキャラクターの目を通すと、親衛隊の制服がかっこよくて、男の子として惹かれるというのは当然あったと思う。それに、ドイツの車、バイク、戦車、飛行機はものすごく性能がいいので、ハンスがドイツ人でいてよかった、ヒトラー政権の下で生きられてよかったと思うのは、正直な実感としてあったでしょう。
だからこそヒトラーはあれほど支持されたのでしょうし、後半になると、いつ失脚してもおかしくないような状態で、一部には彼を暗殺しようという動きもあったけれども、国民的な動きとしては、最後までヒトラーを廃そうということは起きなかった。実際にヒトラーが国民を魅了したという現実があったわけで、そこを書かないといけないとずっと思っていました。














