「この体」が僕の当たり前
僕は人とはちょっと違う体で生まれた。右手の指は4本、左手の指は2本。両脚はすねの骨がない状態で、3歳の時にひざ下を手術で切断した。一般的にはそんな僕を両手指の欠損と両脚の変形がある「障がい者」と呼ぶのだろう。
でも、僕は自分のことを障がい者だと思って生きてはこなかったし、まして「かわいそうな人」と思われるのはまっぴらごめんだ。大方の人が5本指が当たり前だと思っているように、僕にとってはこの体が当たり前だし、僕は27年間、最高に楽しい人生を送ってきた。
つまり、僕にとって人と違う体で生まれたことは大したことではないのだ。もちろん困難なことはあるし、人からサポートを受けることもある。でも、大小の違いはあれど、人にはそれぞれ得意・不得意、短所・長所があるし、人からサポートを受けずに生きていける人なんて一人もいないんじゃないかと思う。そう考えると、僕はいたって「ふつう」。特別に見られるようなことは何もない。
「他の友だちとの違い」を意識した時期もあるにはあったけど、それで悩んだり、落ち込んだりすることはほとんどなかった。
「連志のままで、なんだってできる」
なぜ、僕が僕らしさを失わずに楽しく生きてこられたのか。それは両親の育て方、そして幼少時代を支えてくれた保育園の先生方のおかげだった。
両親、特に幼い僕といる時間が長かった母は、僕をみんなと同じ「ふつうの子ども」として育ててくれたし、周囲の理解があったのも、そんな母のおかげだったと思う。ただ僕が生まれた当時、父は単身赴任中だったから、ほとんどワンオペで子育てをしなければならなかった母は本当に大変だったと思う。僕は今、毎日絶賛子育てに奮闘中だが、夫婦二人で一人を育てるのも大変なのに、母は一人で年子の兄弟、しかも障がいのある子どもを抱えていたのだ。苦労も多かっただろうし、悩みを抱えることもあったに違いない。
そんな時、母に声をかけてくれたのが、長崎市内にある「菜の花保育園(現・こども園)」の先生だった。菜の花保育園では、当時から子どもの発達についての悩みや心配事を抱える親のサポートに積極的で、初めて障がいのある子どもを育てていた僕の母に「一緒に育てていきましょう」と温かい言葉をかけてくれたそうだ。
僕は0歳4カ月から6年間、菜の花保育園に通った。同園の学童保育に通った小学校6年間を含めると12年間にもなる菜の花での日々が、「鳥海連志」の鋼のメンタルを作ったと言っても過言ではない。













