なぜエコロジストも極右になるのか
「極右のエコロジー化」、すなわち極右がエコロジーの言葉を取り込み、自分たちの政治に組み込んでいく流れとは反対に、エコロジーの側が極右的な方向へ引き寄せられていく逆の流れも存在する。
いわば「エコロジーの極右化」である。エコロジーの言葉は、社会正義や民主主義、連帯と結びつきうるが、同時に、人口管理や文明崩壊後の選別、閉じた共同体、権威主義、生命の序列化とも結びつきうる。つまり、環境危機を語る言葉が、「ともに生きるための政治」ではなく、「誰を守り、誰を切り捨てるのか」という選別の政治へ向かうことがあるのである。
エコロジーの極右化の一例として、生態学者ギャレット・ハーディンが提唱した「コモンズの悲劇」という、共有資源をめぐる古典的な議論を挙げることができる。
ハーディンによれば、牧草地のような共有資源を不特定多数の人々が自由に利用できる場合、それぞれが自分の利益を最大化しようとするため、資源は過剰に利用され、最終的には枯渇してしまう。しかし、この議論には大きな問題がある。第一に、この議論は、共有資源の共同管理を必然的に環境破壊をもたらすものとして単純化している。共有資源は地域社会のルールや相互監視、協力の仕組みなどによって持続的に管理される場合もあるにもかかわらず、ハーディンの議論では、共同管理そのものが失敗の原因であるかのように描かれてしまうのだ。
さらに深刻なのは、ハーディン自身の環境論が、白人ナショナリズムや反移民の思想と結びついていたということである。彼にとって、人口増加や資源不足の問題は、しばしば移民の制限や「望ましくない」人々の排除を正当化する議論と結びついていた。このように、エコロジーはかならずしも左派的な政治に向かうわけではない。以下では、極右化しやすい三つの主要テーマ――人口、文明の崩壊、脱成長――を通して、エコロジーと極右の接点を見ていこう。
①人口論
「地球の人口が多すぎる」という説明は、1960年代以降の環境論のなかで大きな影響力をもってきた。IPAT方程式(*1)、茅方程式(*2)、環境収容力(*3)、エコロジカル・フットプリント(*4)といった考え方とも結びつきながら、環境危機を人口問題として語る枠組みをつくってきたのである。
しかし、この語り方には注意が必要である。環境危機を「どのような社会構造が環境負荷を生んでいるのか」という問題としてではなく、「地球上に人間が多すぎる」という問題として語るとき、エコロジーは人口管理や生命の選別を正当化する思想へと傾きかねない。
人口論の問題は、人々を均質な数として扱ってしまう点にある。つまり誰がどれだけ消費しているのか、また、どのような階級関係、地域格差、産業構造、植民地主義的構造のもとで環境負荷が生み出されているのかを、見えにくくするのである。
たとえば、環境収容力は生態学では有効な概念だが、それを人間社会にそのまま当てはめると、人間を同じ環境負荷をもつ個体の集合として捉えることになる。その結果、社会的不平等や植民地主義の歴史が無視され、「人口を減らせばよい」という発想へ向かってしまうのだ。
もちろん、人口について語ることそのものが、すぐにエコファシズムになるわけではない。問題は、それが「どの人口が過剰なのか」という問いへ変わるときである。
そのとき、移民、グローバル・サウス、非白人、貧困層などが環境危機の原因として名指されれば、過剰人口論からネオ・マルサス主義(*5)へ、さらに生命の序列化や差別的政策へと論理が飛躍してしまうのである。つまり、エコロジーにおける人口論の極右化とは、環境問題を生産や消費、資本主義の問題としてではなく、「存在してよい人口」と「多すぎる人口」の問題へ変えてしまうことと言えるだろう。
*1 IPAT方程式とは、人間活動が環境に及ぼす影響を表す数式であり、環境負荷(impact)は人口(population)、豊かさ・消費水準(affluence)、技術(technology)の三要素の積によって決定されるとする。
*2 茅方程式とは、CO2排出量を人口、一人当たりGDP、エネルギー効率、炭素集約度の四要素に分解して表す恒等式。
*3 環境収容力とは、ある自然環境がその機能や資源を損なうことなく、持続的に支えることのできる生物個体数や人間活動の上限を指す概念。
*4 コロジカル・フットプリントとは、ある人口集団の消費活動を維持し、かつ廃棄物を吸収するために必要な陸域および海域の面積を測る指標である。
*5 ネオ・マルサス主義とは、人口増加を環境危機や資源不足の主要因とみなし、出生率の抑制によって環境負荷を軽減すべきであるとする思想である。
②文明の崩壊
環境危機が、「政治によって対処すべき構造的な問題」としてではなく、「近い将来、化石燃料に依存する産業文明は崩壊する」という避けられない終末シナリオとして語られるとき、エコロジーはサバイバリズム(*6)や例外状態の正当化へと接続されていく。
もちろん、文明崩壊論は、もともと左派的・エコロジー的な文脈でも広がってきた。しかし、環境危機による崩壊が、極右によって民族的・文明的な崩壊の物語へと読みかえられると、内戦的なサバイバリズムや、白人至上主義的な想像力と結びつけられる。
すると、文明崩壊論の議論はサバイバリズムへ、サバイバリズムから反動的な閉じこもりへ、さらに環境危機を理由とする例外状態や権威主義の正当化へと向かう。つまり、文明崩壊論の極右化とは、環境危機を「どう公正に変革するか」という問いではなく、「崩壊後に誰が生き残るか」「誰を守り、誰を切り捨てるか」という問いへ変えてしまうことなのである。
文明崩壊論は、一見すると科学的な予測のように見える。しかしそれは、複雑な未来の可能性を、「崩壊後」というひとつのシナリオに閉じこめてしまうことで、環境危機をめぐる政治的な想像力を狭めてしまう。さらに問題なのは、そこに西洋中心主義が入りこみやすいことである。文明崩壊を「これから起こる一つの大事件」として描くことは、すでにグローバル・サウスで進行している災厄を見えにくくする。文明崩壊は未来の出来事として語られるが、実際には、すでに多くの場所で生活の基盤は壊されてきたのだ。
また、文明崩壊論が人口主義と結びつくと、より危険な方向へ向かう。文明の崩壊によって多くの人々が死ぬことが、まるで「よりエコロジカルな社会」を再建するための条件であるかのように受け入れられてしまうからである。
さらにその犠牲は、すでに環境破壊の被害を受けているグローバル・サウスの人々に押しつけられやすい。また、エコスピリチュアリティと結びついた文明崩壊論では、崩壊が単なる悲劇ではなく、自然が近代的インフラや過剰人口を「取り除く」救済的な出来事として意味づけられることがある。まるで文明崩壊が、自然による人間社会の「浄化」であるかのように語られることで、反動的な想像力が入り込む余地が生まれるのである。
*6 サバイバリズムとは、社会秩序や文明の連続性が断たれるような局地的、または全体的な災害に備え、食料・武器・医療知識・避難場所・野外生活技術などを準備する実践である。この運動は、1970年代のアメリカで、ソ連との核戦争への恐怖や、1973年の石油危機後の社会崩壊不安を背景に発展した。2000年代以降、サバイバリズムは、冷戦型の備えからエコロジーを取り込んだ「ネオサバイバリズム」へ変化した。この新しい型では、経済システムへの依存を減らし、農村的で質素な生活、半自給、自然に近い暮らしを目指すという点で脱成長思想と似た面がある一方、軍事的・防衛的な要素が加わっている点に独自性がある。
③脱成長
脱成長は、「有限な惑星のうえで無限の経済成長は不可能である」という認識から生まれた。有名な脱成長の議論として、ニコラス・ジョルジェスク=ローゲンのエントロピー論(*7)、1972年のローマクラブ報告書『成長の限界』(*8)、フランスのマルクス主義者アンドレ・ゴルツ(*9)の議論などが挙げられる。
中でも、ゴルツにとって、脱成長はたんなる経済縮小ではなく、資本主義によって形づくられてきた欲望や必要を民主的に問い直すための政治構想だった。つまり、何をどれだけ生産し、何を本当に必要とするのかを、社会全体で決め直すという発想である。
しかし、脱成長が経済学の一分野として確立されていくなかで、その政治的・民主的な基礎はしだいに薄まっていった。その結果、脱成長は「GDPを減らす」というマクロ経済的なスローガンとして理解されやすくなる。もともとあった「生産手段の再領有」という文脈が弱まることで、新右翼などが回収する余地も生まれた。アラン・ド・ブノワも近年、脱成長を強く主張し、「より多く生産し、より多く消費し、より多く交換し、より多く利益を得るという構造を維持したままでは、環境破壊を止められない」と語っている。
問題は、脱成長がどのような政治へ接続されるのかである。経済成長を追求することへの批判が、民主的な生産・消費・欲望の再編成へ向かうのであれば、それは左派的なエコロジー政治になりうる。しかしそれが、禁欲、質素さ、閉じた共同体への回帰として語られるとき、脱成長は極右化しやすくなる。
とくに、「幸せな質素さ」や禁欲を個人的な道徳として押しつけたり、近代文明全体を捨てるべきだとするような語りは、民主的な討議ではなく、自然や伝統の名を借りた命令へと変わりうる。そのとき脱成長は、気候正義や再分配よりも、伝統的秩序への回帰や移民拒否、ジェンダー理論に対する批判へと接続されやすい。さらに、それがサバイバリズムと結びつけば、脱成長は、文明崩壊後の生存、民族戦争への備え、白人分離主義、閉じた共同体建設の実践へと変わってしまう。
*7 エントロピー論とは、経済活動によって資源やエネルギーは不可逆的に消費されるため、地球上では無限の経済成長は不可能であるとする考え方である。
*8 『成長の限界』は、国際的な民間シンクタンク「ローマ・クラブ」が1972年に発表した報告書である。人口、工業生産、食糧生産、資源消費、環境汚染がこのまま増え続ければ、地球の資源や環境には限界が訪れると警告した。
*9 アンドレ・ゴルツ(1923–2007)は、オーストリアに生まれ、戦後フランスで活動した思想家・ジャーナリスト。マルクス主義を出発点に、資本主義的分業や生産力主義を批判し、自主管理、労働時間の短縮、脱成長、普遍所得などを論じた。













