極右エコロジーと気候変動懐疑主義は両立する
ここまで読んだ人は、こんな疑問をもつかもしれない。これほど体系化された極右エコロジー思想があるのに、なぜ極右の主流は相変わらず気候変動懐疑主義にとどまっているのだろうか?
実は、極右がエコロジーを語りながらも、同時に気候変動懐疑的な態度をとることは、一見矛盾するが、両立可能である。なぜなら、極右的エコロジーは、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の科学的知見に基づいて、パリ協定のような国際的な気候政策を実現しようとするものではないからである。
むしろそれは、エコロジーに結びついた想像力を、人種主義的、反動的、閉鎖的な政治プロジェクトを正当化するために利用する。よって、極右の政治家が「IPCCは誇張している」と述べ、科学者の発言を信用できないものとして扱うことと、自然、土地、国民、景観を守るというエコロジー風の言説を使うことは、同じ目的のなかで共存できるのだ。極右は、科学的な気候対策には反発しつつも、自然や土地を守るという言葉だけを自分たちの政治に都合よく取り込むのである。
また、極右は複数の支持層を集めるために、異なるエコロジー言説を使い分けている。権力を取ろうとする政党は、さまざまな社会階層や職種から支持を集めなければならない。
そのため、特定の保守的知識人層に向けては、「土地への回帰」「村落共同体」「短い流通回路」といったレトリックを使うことがある。
しかし、このようなエコロジー的・共同体的な語りだけでは、選挙に勝つほどの広い支持基盤をつくることはできない。だからこそ極右は、エコロジー思想を掲げてみせたとしても、グリホサート系除草剤などの農薬、石油、自動車を正面から批判することはしない。
そうでなければ、フランス農業の大規模化・高生産性・競争力強化を求める農業経営者組合や、エコロジストに強く反発する平均的な極右有権者の支持を得られないからだ。だから彼らの「エコロジー風」の言説と、実際の議会投票や産業寄りの立場とのあいだには矛盾がある。
しかしそれは、単純な思想的矛盾というより、支持層ごとに語りを使い分ける選挙戦略なのである。 議会内の極右は、産業界や化石燃料産業の利害に支えられたカーボファシズム的傾向をもつ。
他方で、議会外の極右には、農村へ移住し、民族的に同質的で、家父長的な自給的共同体を作ろうとするエコファシズム的な実践もある。この2つは、必ずしも対立するものではなく、むしろ補完関係にあると捉えるべきだ。カーボファシズム的な極右勢力が、政党政治の中心では化石燃料産業や既存の消費生活を守りながら、周辺でエコファシズム的な小共同体の形成を容認したり、促進したりすることは十分にありうるのである。
極右エコロジーに抵抗するには
極右は気候危機を、単なる環境問題として扱うのではなく、移民排除や国境閉鎖を正当化するために用いる。つまり極右エコロジーは、環境保護の言説を通じて、排外主義や権威主義を強化する政治なのだ。
極右の構想する「強い国家」の行き着く先は、気候変動によって移動を強いられた人々に国境を閉ざし、多くの死を生み出す「閉じた社会」である。そこでは、連帯よりも統制と排除が優先されるだろう。これに抗うために必要なのは、公共の権力を再建し、社会的な不安定さをできる限り抑えながら、同時に国家装置そのものを民主化することである。
さらに、極右への支持に繋がる不安を丁寧に分析することも重要である。その背景には、気候変動への不安、文明崩壊への恐怖、移民への不安が複雑に結びついている。加えて、工業資本主義による景観破壊や、風力発電のような気候対策そのものが景観を変えてしまうことへの反発も、極右への支持を生む要因になっている。したがって左派は、こうした不安を単に否定したり嘲笑したりするのではなく、それらがどのように極右の政治へと動員されているのかを見極めなければならない。
また、極右エコロジーと親和的な「近代」批判は、その批判対象が曖昧になりやすい。したがって、近代を丸ごと原因とするのではなく、医療や政治的自由のように維持または改善しうるものと、資本主義的搾取や破壊的インフラのように解体すべきものを民主的に選別する必要がある。極右エコロジーへの抵抗は、それを支える不安の構造を分析し、民主的で連帯的なエコロジー政治を提示することによって可能になる。













