ナショナリズムとジェンダー
国民国家において、家族は単なる私的領域ではなく、国民を再生産する場として位置づけられてきた。そのなかで女性には、二重の再生産の役割が割り当てられる。
第一に、生物学的再生産である。女性は「子どもを産む性」として、人口の再生産を担うものとみなされる。第二に、文化的再生産である。女性は、言語、文化、宗教、価値観、民族性、国民性を次世代へ伝える役割を負わされる。だからこそ、女性の身体や家族のあり方は、ナショナリズムにとって重要な政治的争点となる。
同性婚反対運動もまた、「国民を再生産する家族」という枠組みや、女性を「再生産の担い手」とする価値観と深く結びついていた。
「みんなのためのデモ」以降の右派運動は、アイデンティタリアン右派(*1)、伝統主義カトリック、ナショナリスト系の運動とも結びつきながら、母性、自然な性差、女性性を強調することで女性を取り込んでいった。
そこでは女性は、「子どもを守る存在」「家庭を守る存在」「文化や国民性を継承する存在」として称揚された。しかし、これは必ずしも女性の解放を意味しない。女性は、自律的な主体としてではなく、母性や家庭内役割を担い、保護を必要とする脆弱な存在と位置付けられた。つまり、フェミニズム的な解放要求は、「女性を守る」という保護要求へと変換されたのである。
女性が、「再生産」を担わされるという構造に異議申し立てをするのではなく、むしろその構造の中で与えられた役割を保持しようとして反同性婚デモに参加する——この矛盾した事態を考えるうえで、アンドレア・ドウォーキンの議論は示唆的である。
彼女は1983年の時点で、著作『右翼の女たち』において、なぜ一部の女性が自分たちを従属させるはずの保守的・家父長的な政治に加担するのかを問いている。ドウォーキンの答えは、それが一種の生存戦略である、というものだった。抑圧的な家父長制のなかで、女性たちは「正しい側」に立つことを選ぶ。すなわち女性は、男性的、あるいは国民的な保護の約束と引き換えに、服従を受け入れるのである。
「みんなのためのデモ」以降、フランス右派・極右においても、女性が政治の前面に現れる機会は増えた。しかし重要なのは、女性が政治の場に現れたという事実そのものではなく、その現れ方である。彼女たちは「解放を求める女性」としてではなく、「守られるべき女性」として表象された。この構図は、次に見るように、「女性の安全」をめぐる右派・極右の言説のなかで、次第に排外主義的な意味を帯びていく。













