長きにわたってタブーだったロヒンギャの問題

世界で最も迫害されている民族と国連が位置付けたミャンマーの少数民族ロヒンギャ。1982年に制定されたミャンマー市民権法によってミャンマー政府から、いきなり国籍を剥奪されて無国籍にされたこの民族は、公民権を失い、国内でも移動の自由が認められず、居住地を限定されるなど、複合的な弾圧を受けていた。

ミャンマー政府の目的は、ロヒンギャが居住する西部ラカイン州を横断するパイプライン利権の独占とも言われているが、ミャンマーの人口の9割は仏教徒であり、イスラム系であるロヒンギャに対する宗教差別=ヘイトクライムの側面もある。

1950年代には国会議員や閣僚まで輩出していたロヒンギャの国籍を剥奪し、仏教徒との婚姻も制限するという凄まじい人道破綻であった。さらに国外への追い出しを狙ったミャンマー国軍は2017年8月25日から軍事掃討作戦を展開する。

このときは、一か月間で、少なくとも約6000人のロヒンギャが虐殺され、5歳未満の子供730人も含まれていたことが「国境なき医師団」によって報告されている。

居住地に対する焼き討ちや兵士による組織的なロヒンギャ女性に対する性テロリズムは凄惨を極め、直後に約80万人が隣国バングラデシュに難民となって流出した。

その後、2021年に起きた国軍クーデターによって、更に弾圧に拍車がかかり、現在、このバングラデシュのロヒンギャ難民キャンプには約110万人が押し込められている。

「ロストランド」は現在も厳しい迫害の中で生活を強いられるこのロヒンギャの姉弟シャフィ(5歳)とソミーラ(9歳)が叔母とともに難民キャンプを出て、マレーシアに暮らしている両親に会いに行くロードムービーである。

4 月 24 日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、kino cinéma 新宿、ポレポレ東中野ほか全国ロードショー🄫2025E.x.N.K.K
4 月 24 日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、kino cinéma 新宿、ポレポレ東中野ほか全国ロードショー🄫2025E.x.N.K.K
すべての画像を見る

ロヒンギャの問題に触れる事は、ミャンマー国内外の民主化勢力の中でも長きにわたってタブーとされていた。アウンサンスーチーや日本で暮らすNLD支持者も口を閉ざすか、もしくは「彼らは違法移民のベンガル人であってミャンマー国籍は奪われて当然」等々、政府が流している歴史修正に基づく排外的な見解を発信していた。

SNSでは、ロヒンギャの男性が仏教徒の女性をレイプしているなどと、根拠の無いデマが拡散され。国連はFacebook社がこれらのヘイトスピーチを野放しにしており、憎悪扇動に加担してことを報告書に上げている。

すでにミャンマー市民権法制定から40年以上が経過しており、分断は一般市民の中でも深刻に刷り込まれている。

筆者の知る限り、ロヒンギャに対して科学的で人道的な知見を公言している在日ミャンマー人は、大阪在住のアウンミャッウインだけである。

「ロヒンギャヘイトに加担しない」~あるミャンマー難民が語る「人権」

デビュー作「僕の帰る場所」で難民申請中の在日ミャンマー人家族を描いた藤元明緒監督がミャンマー国内で最も被差別の地位にあるロヒンギャをいかにして知り、モチーフにしたのか、そのプロセスにまず興味が湧いた。

「僕が最初にミャンマーに行ったのが2013年なのですが、ロヒンギャについてはその当時から、現地の人々の口から聞いていました。旧首都のヤンゴンなどでは、訊ねてもいないのに、いわゆるロヒンギャヘイトを言われるので、なぜ、そこまでロヒンギャを嫌うのか。それで逆に興味を持ったんです。

藤元明緒 1988年、大阪府生まれ。在日ミャンマー人家族を描く初長編『僕の帰る場所』(2018年)が第30回東京国際映画祭アジアの未来部門 作品賞&国際交流基金アジアセンター特別賞を受賞。2021年、ベトナム人技能実習生を描く長編第二作『海辺の彼女たち(日本ベトナム国際共同製作)』を公開。同作品はPFF第3回「大島渚賞」、2021年度「新藤兼人賞」金賞などを受賞。主にミャンマーなどアジアを舞台に合作映画を制作し続けている 🄫2025E.x.N.K.K
藤元明緒 1988年、大阪府生まれ。在日ミャンマー人家族を描く初長編『僕の帰る場所』(2018年)が第30回東京国際映画祭アジアの未来部門 作品賞&国際交流基金アジアセンター特別賞を受賞。2021年、ベトナム人技能実習生を描く長編第二作『海辺の彼女たち(日本ベトナム国際共同製作)』を公開。同作品はPFF第3回「大島渚賞」、2021年度「新藤兼人賞」金賞などを受賞。主にミャンマーなどアジアを舞台に合作映画を制作し続けている 🄫2025E.x.N.K.K

体験として大きかったのは、やはりラカイン州で軍事掃討作戦が起こった2017年8月ですね。当時は、ミャンマー国内の撮影現場にいたんですけれどもロヒンギャの虐殺については絶対に触れてはいけない空気があって、周囲の人間が誰もかれもそのことを一切話さないんです。

すごく強烈な違和感、居心地の悪さを感じたというのが、振り返ってみると大きな経験だったと思います。だから映画にする前はもう(ロヒンギャについて)人に聞くこともやめていましたが、映画を撮ると決めてからは、記者の方のレポートや国外に住んでいるロヒンギャの人々に聞いて取材を進めました」