敷かれたレールに「乗れない」ことへの絶望感と劣等感
「決められたことに従うこと」に対するわからなさ、しんどさと劣等感は、カルチャー面での孤独よりも救いなく、加速度的に強くなっていった。
毎朝同じ時間に起きて同じ通学路で同じ学校に行くだけでも、奴隷になったような不自由さを感じるのに、みんな平気な顔でそれができていることに、激しい劣等感を感じる。
中高は詰襟と制帽のある私立。制服はゴワゴワした硬い生地や首に冷たく当たるプラスチックの詰襟カラーが息苦しく、奴隷の首輪をつけられたようだとしか言いようがない。不快すぎてカラーや首のホックを外すたび、廊下で先生にその都度呼び止められ、徐々に従わない子・要注意の子の札を付けられていくのが分かった。
理解のできない無意味としか思えないルールを強要できる教員もまたそうしたルールを受諾できる人々なのかと思うと、絶望的な距離感を感じた。
電車に乗ると、男の大人も女の大人も髪の毛や服から嫌な臭いがして仕方がない。寄りかかってくる人がいるのに自分はなぜか人に寄りかかることができなくて必死に耐えて、学校に着いたらヘトヘトになる。自分より明らかに体育が苦手な男子でさえ、僕より遥かに遠くから満員電車で通学できているのに、自分は軟弱なのかと劣等感に苛まれた。
当たり前ができない、当たり前がわからない、従いたくない。「みんな」との差がますます開いていく中、中学2年の時点で自分には何か知的なものを含む障害があるのではないかと疑い始め、それがあるにせよないにせよこのまま大学進学・企業就職するといったお定まりのルートには絶対乗れない。
この時期は敷かれたレールに乗ることへの拒否感や反骨精神などではなく「自分はそこに乗れないだろう」ということへの絶望感と劣等感が強く、そのまま生きていたら絶対に「詰む」=犯罪者になるかホームレスになるか、どこかの寺で修行僧にでもなるしかない等と真剣に思った。
周囲にも思春期の自我が立ち上がる中、反骨精神ゆえに「レールには乗らない派」が一定数いたが、「乗れない」の僕とは違うように思えてならないことが、また孤独だった。
耐え難い不安の中、何なら働けて何なら食っていけるのかを見極めたくて、中3から年齢を偽ってバイトをするようになり、進級した高校時代でも最後は卒業できるギリギリの出席日数を担任に確認しつつ、とにかくたくさんの種類のバイト経験を詰むことに明け暮れた。
が、結局そうして足掻いたものの、高校2年の夏、この性格だったが故に、僕は「詰んだ」。
文/鈴木大介
※「よみタイ」2026年4月25日配信記事














