だからふたたび寝室に戻り、足をもう一歩踏み入れ、室内を覗きこんだ。すると、乱れのない布団が敷かれている場所の奥に、入り口からは死角になっている寝室の左側の奥のあたりに、じいちゃんの脚らしきものがちらりと見えた。
「なーんだ、じいちゃん。そんなところに寝てたの?風邪ひいちゃうよ」
少しホッとし、しかしそれ以上に強烈な違和感も覚え、美江子はおそるおそるにじり寄った。ようやく全身が見えたじいちゃんは、奥の壁沿いに置かれた大きな古簞笥に背をもたれて座っていた。両脚を投げ出し、じっとうつむいて眼を瞑っていた。その古簞笥は、数年前に亡くなったばあちゃんの─美江子にとっては義母・ミサオの嫁入り道具だった。だから長年大切にし、自らの寝室に置いていた簞笥に半身を委ね、眼を閉じてうつむいたままのじいちゃん─。
「どう、したの、じい、ちゃん……」
はっきりと異変を確信した美江子は、声にならない声を漏らしながら、じいちゃんの姿をまじまじと見た。
顎の下の首筋あたりには、紐状になったビニールが深々と食いこんでいた。そのビニールの先を眼で追うと、古簞笥の上部にある金属製の取っ手に結びつけられていた。真っ直ぐに伸びたそれはピンと張りつめ、異変の正体を無言で語りかけていた。首筋に食いこんだ紐状のビニールが、じいちゃん行きつけの薬局で処方された薬を入れるビニール袋を幾枚も繫いだものだと美江子が知ったのは、しばらく経ってからのことである。
「なにやってんの、じいちゃんっ?どうしたのよっ、じいちゃんっ!」
美江子は慌てて駆け寄り、じいちゃんに声をかけ、その手や頰に触れた。
だが、必死に呼びかけても反応はない。眼を閉じたままのじいちゃんは、顔から血の気が失われ、身体も脚も微動だにしない。手も頰も温もりが失われ、完全に冷たくなっている。
「なにやってんのよ、じいちゃんっ!いったいなにやってんのよっ、じいちゃーんっ!」
静まり返った室内に、半狂乱になった美江子の、絶叫だけがただ響いていた。
以後の数時間、美江子には記憶がない。あまりのショックで気が動転し、自分がそれからなにをどうしたのか、定かな記憶が残っていないのだ。
あとになって息子の佳則らに聞かされたところによれば、じいちゃんの寝室でしばらく呆然としていたらしき美江子は、自分の携帯電話を手に取って佳則の携帯電話を鳴らし、動転しつつもかろうじて状況を伝えた。驚愕した佳則は職場から家に飛び帰り、警察に110番通報をしたのも佳則だった。
村には警察署も交番もないから、通報を受けた警察は近隣の街から警官を派遣した。それでも、さほど時間を要さずに現着したようである。間もなく医師も立ちあって検死が行われ、文雄の死亡は正式に確認された。その際に作成された〈死体検案書〉には、死因などが次のように記されている。
〈直接死因 縊死〉
〈死因の種類 自殺〉
そして死亡推定時刻は、
〈平成23年4月12日午前零時ごろ〉─。
つまり文雄は平成23年=2011年4月12日の前日深夜に自ら首をくくり、日づけが変わるころには息絶えてしまっていたことになる。だとすれば翌朝、寝室の布団に横たわった様子すらなかったのも当然だった。
逆にいうなら、じいちゃんは深夜の寝室の暗がりでただひとり、薬局でもらった小さなビニール袋を一枚一枚手で繫ぎ、いわば縄をなう手慣れた要領で、自らの命を絶つ紐を編んでいたのだ。それを愛妻との思い出の古簞笥の取っ手に結び、自らの首にかける際に去来した想いはいかばかりだったか。
と同時に、じいちゃんの異変に気づけなかった自身を責める気持ちも湧きあがり、美江子は胸を搔きむしられるような後悔と喪失感に襲われ、検死作業にあたる警官らの前で正気を装うのがやっとだった。
そんな美江子の胸中を知ってか知らずか、検死を終えた警官は淡々とこう告げた。
「覚悟の自殺とみて間違いありません。事件性はありませんので、その点はご安心ください」
美江子と佳則は、呆然とそれを聞くだけだった。居間の卓上には、じいちゃんが平らげるはずだった朝餉の膳が、大好物の卵焼きや味噌汁や炊きたての飯が、すっかりと冷めたまま放置されていた。













