「合戦ではない戦い」の 面白さと難しさ

――上田さんの作品は合戦やチャンバラの場面の迫力が魅力のひとつですが、今回は堺商人たちが主人公ということもあって、交渉戦、謀略戦の面白さにフォーカスされていたのが印象的でした。

上田 歴史時代作家の心得のひとつに「展開に困ったときはチャンバラを書く」というのがありましてね。読者さんに解放感を味わっていただけますし、自分自身も書いていて興奮があるので、昔は遠慮なく人を斬りまくっていたんです。それが、あるとき私の本を読んだ長男に「一冊で二百三十人って、そら斬り過ぎやで」と言われたんです。そんな野鳥の会みたいにカウントせんでもええやんと思いつつ、それ以降、自然と合戦やチャンバラは減りましたね(笑)。
 まあ、実際のところは堺商人の視点で物語を動かすと決めたので、合戦シーンを入れるには宗久なり宗易なりを現場に立ち合わせる必要がある。ところが堺商人が合戦に行ったという記録はありませんので、合戦ではなく、その裏側で繰り広げられていた交渉や謀略をメインに描かざるを得なかったというわけです。

――実際に「合戦ではない戦い」を書かれてみていかがでした?

上田 しんどかったですね(笑)。合戦は枚数を稼ぐのが楽なんです。「えいっ!」とか「おりゃっ!」で1行になりますから。その点、交渉戦がメインとなるとどうしても地の文が多くなる。僕は台詞でごまかすタイプの作家なので、とにかく難儀しました。でも、いい勉強になりましたよ。今後、戦国時代を題材にして書く時に、合戦シーンに頼らないで物語を組み立てていけるという自信にもなりましたしね。

――宗久をはじめとした納屋衆(なやしゅう)の面々による肚(はら)の探り合いや、大きな決断へ至る心の揺れ動きは、合戦とは全く違う興奮がありました。そもそも伝統的に堺と結び付きの強かった三好氏から、当初はまだ新興勢力に過ぎなかった信長に得意先を鞍替えすること自体、前代未聞の出来事だったわけですよね。

上田 そうですね。堺は三好のおかげで繁栄した部分もかなりあるので、現地へ足を運んでみると、今でも三好の名残が寺や屋敷跡などにたくさん残っています。まだ三好派が多かった時代に信長が現れ、両天秤に掛けながら趨勢(すうせい)を読み、宗久が天秤を信長に傾けた。その傾け方が商人的に見えるよう腐心しました。信長が今後の堺にどれほどの利をもたらすのか、宗久は商人的な勘と言葉、凄味(すごみ)によって納屋衆の面々を説き伏せたわけですが、これも商人の誇りを胸に秘めた命懸けの戦いだったと考えています。

――やがて信長から茶堂衆に任じられる宗久たちが茶室で展開する密談もスリリングでした。そこで当時の武将たちの懐事情が浮かび上がってくるのも非常に印象的で、キーアイテムになっていたのが鉄砲でしたね。

上田 鉄砲は合戦のありようを変えた当時の最新兵器ですが、一丁が幾らだったのかわかっていないんです。何かの史料に一丁が三〇貫文くらい(現在の価値では約360万円)とありましたが、それは堺商人が誰か武将に売ったときの金額なのか、信長に納入した時の金額なのか判然としないんです。

――その値付けをめぐって、堺商人と信長をはじめとした武将たちのあいだで駆け引きがあったわけですよね。

上田 信長とほかの大名に売る時とでどれくらい価格差があったのかはわからないんですが、まあ、さすがに信長も原価割れの値付けまで要求することはなかったでしょう。ただ、とにかく恐い人なので、堺商人の利益を上乗せしていたとしてもほんの少しだったと思いますね。
 鉄砲を撃つには弾や硝石が必要になってくるので、現代の価値に換算すると、一発撃つごとに十文くらい(約1200円)かかったという説もあるようです。もっと言うと、鉄砲は射撃の練習をしないと使いものにならないので、熟練するにはおのずと費用と時間がかかりますよね。長篠(ながしの)の合戦で何千丁もの鉄砲を用意することができた信長は、とんでもなく裕福な武将だったと言えるんじゃないでしょうか。

――鉄砲の値段が高止まりしていたのは、信長が技術流出を防ごうとしたのが理由だったという説も出てきますね。

上田 あれは私の仮説なんです。技術は流出したら終わりです。でも、足軽は襲われて命の危機に瀕(ひん)したら武器を捨てて逃げますから、戦場に鉄砲が落ちていなかったはずがないんですよね。そうなったときに敵軍が拾った銃を模倣して生産しようとしても不思議ではないんですが、高い技術力がない限りそう簡単にはいかない。その技術力を持っていたのが、国友衆や堺の鉄砲鍛冶たちです。

――信長はその両方を押さえていたわけですよね。

上田 はい。残るは根来(ねごろ)の鉄砲です。根来の銃は銃身が長いので命中精度は高かったようですが、信長は一発一発の精度ではなく三千発撃って千発当ればいいという面制圧に主眼を置いていたので、そこそこの性能で大量生産できる堺の鉄砲で充分だったんじゃないかと思うんです。それに堺は、硝石などを販売するシステムも作っていました。そうなったときに、技術流出を防ぎ、ほかの大名が簡単に鉄砲を入手、製造できなくするために、信長は堺をしっかりと押さえておく必要があったのでは、と。

――それこそが、信長が堺を重要視した理由だということですね。

上田 当時、尼崎も堺と肩を並べる良港でしたが、信長は尼崎を捨てて堺に傾注し、結構な庇護(ひご)を与えています。信長が鉄砲のほかに何を堺に期待したかというと、やはり情報でしょう。信長は天下布武を期して安土に城を築きますが、私は安土と堺の微妙な距離が気になったんです。安土からだと港で言えば敦賀(つるが)の方が近い。なのに信長は堺を重視した。当時、敦賀に入るのは中国船、堺は南蛮船が中心でした。ここから、信長は南蛮からの情報や文物を入手するために堺を重視したことが見て取れます。

――なるほど。

上田 その後、天下布武を期した信長は西へどんどん版図を拡大していきます。結局、九州に手を伸ばす前に殺されましたが、もし支配していたら博多を拠点にしただろうなと。九州から堺まで潮の流れがよければ二日で行けるようですが、博多に拠点があれば南蛮からの情報が二日も早く手に入るわけです。そうなると相対的に堺の価値が下がる。商人も情報収集が肝ですから、信長が安土城を築いて西へ駒を動かし始めた時点で、その意図は敏感に察知していたはずです。

――かつての尼崎のように堺も切り捨てられるのではないかと。

上田 ただ、それを察知したからといって、商人なので信長に直接歯向かったりはしません。信長の支配からどう逃れられるかを考えるんじゃないかと思ったんです。切り捨てられる恐怖を抱えながらいかに金儲けをするかという、それこそが数多(あまた)の武将と渡り合ってきた堺商人の矜恃(きょうじ)です。そして、その誇りを胸に商人らしい戦い、つまり謀略戦を繰り広げたのではないか─という感じで物語を進めていきましたね。

上田秀人「商人の誇りと権力者の驕り」_4