「同意しなければ、どうなるか分かっているな」
他方、「言葉」を選ぶなら、本質観取がそうであるように、私たちは、暴力、権力、お金、地位などを持ち込まず、みんなで対話を通して決めていくことになります。
じゃんけんやくじ引きはどうなのか? これについては、じゃんけんやくじ引きで決めるということを、私たちはどのように決めるのかと考えてみるとよいでしょう。それも結局、「力による決定」か、「言葉による合意」かに行き着くはずです。
複数の人が何かを決めようとする時、これを哲学的につきつめるなら、「力」か「言葉」がその手段になる。この自覚は重要です。というのも、言葉による合意をあきらめるなら、あっという間に力による決着へと傾いてしまうことを、意識できるようになるからです。ひとたび対話をやめてしまえば、力がものを言う社会になってしまうのです。
もしそれを望まないなら、私たちは対話を重ねるほかありません。
でも、その対話のコミュニケーションそのものに暴力が入りこんでいたとしたら、どうでしょう。
先述した、「力」寄りの「言葉」、あるいは「言葉」寄りの「力」です。いわば「力」と「言葉」が混ざった状態です。
たとえば、学校や会社の会議で、言葉の裏に隠された権力を経験したことのある人も多いでしょう。形式上は民主的な手続きを装ってはいるが、そのじつ、権力関係によって一切が事前に決められている。
「あなたは同意しますか」と口では言いながら、「同意しなければ、どうなるか分かっているな」と、実際は脅迫されているような場面です。
このような場合、どれだけコミュニケーションを重ねて合意を形成しても、それは権力者の意のままの決定にすぎません。すると、人びとは言葉への不信感を募らせ、合意と呼ばれているものが、結局は力の側に与しているという認識を強めてしまうことになるでしょう。
共通了解とか合意とか普遍性とかいった言葉に多くの人が疑念を抱くのは、おそらくこのような現実社会の事情があります。















