銀行預金は「不安の貯金」
小学生時代、僕の通っていた小学校では、親戚からもらったお年玉を郵便貯金することが奨励されていた。
新学期明け、講堂に郵便局員がやって来て、生徒たちは茶封筒にお年玉を入れ、貯金の手続きをしていた。僕は「なんで貯金しないといけないの?」と、不思議でならなかった。せっかくのお年玉だから、ゲーセンに行ったり、マンガを買いたかったのに……。
学校の先生も、両親も、世間の大人は「貯金は大事です」と言う。それは、正しくない教えだ。
何らかの目的があって、貯めているのは別にいい。でも、特にこれといった使い道がないのに、預金通帳にお金を余らせ続けるのは、本当に愚かしいことだ。
そもそも郵便貯金は第二次世界大戦中、戦費調達のキャンペーンから全国に普及したものだ。戦争がなくなった現在は、国債を償却するために、貯められたお金を運用している。そんな歪な機関に、大事なお年玉を吸い取られてしまったアホらしさは、ずっと僕の記憶に残っている。
銀行などの機関に預けているお金は、銀行に対する債権だ。
貯金は、いざというときのための資金だというけれど、多ければ多いほど、それだけ誰かにお金を貸して、あなた自身の人生の幅を狭めているのと同じなのだ。貯金は生活の安心につながると、大人は言うかもしれない。しかしその金額ぶん、債権者としての負担を増やしているのだ。それがなぜ安心なのだろう?
僕の言い分は、極論すぎるかもしれない。だけど、いくら批判されようと、しつこく言い続ける。貯金が美徳というのは、間違った考え方だ。
銀行に預けていれば、たしかにお金は融資という形で世の中に回る。しかし融資の恩恵を受けるのは、限られた大手企業だ。庶民の消費が活性化しなければ、意味がない。多くの会社の業績は上がらないし、雇用も生まれない。使わない限り、お金は活きてこないのだ。
僕は大学生になって以降、貯金は一切やめた。
一生懸命働き、まとまったお金を持ったら、仲間と遊びに行き、旅行へ出かけ、美味しいものを食べ、見聞を広めるために使い尽くした。性分的に、貯金好きではないのもあるけれど、活きない貯金を守るより、活きたお金を使った方が、絶対に楽しくて幸せだと信じていた。使うだけ使いまくって、正しかったと思う。
お金を使って得た経験は、社会に出てから、いろんな場面で役に立った。コミュニケーションのレベルも、出会う人のランクも高くなった。
貯めていれば、国内の40代のビジネスマンのなかでは指折りの富豪になっていたかもしれない。でも僕にとっては、貯金額を増やすより、そのときにしか得られない出会い、興奮や、体験を積み重ねることの方が、はるかに大事だった。
僕の得てきた体験は、いま同じ額のお金を投じたところで決して得ることはできない。貯金は目先の不安を多少取り除くのかもしれない。しかし時間を買い戻すことはできないのだ。
いまという時間を楽しみ尽くし、後悔のない人生を送るために、お金の活力を信じて、好きなだけ使ってしまおう。
貯金にとらわれ、お金の活力を死なせてはならない。













