全盛期には「月に500万円以上」の売り上げも
決して大きくはない。1坪ほどのスペースに専門書が並んでいる。その店主を務めてきたのが、90歳の霜鳥和子(しもとり・かずこ)さんだ。
創業者である父・源一さんが、戦後間もない1951年2月15日に、ラジオセンターのオープンと同時に万世書房を開業した。当時、和子さんは学生で、昼休みに手伝いに来る程度だったという。しかし1969年、源一さんが体調を崩したことで店を引き継ぐことになった。
「うちはこれで食べてるから、店がなくなれば収入がなくなる。引き継いだときは、ただやらなくちゃって思っただけだよ」
運命や志といった言葉より先にあったのは、生活というリアルな理由だ。「継ごうと思った」というより「継がざるを得なかった」。その瞬間から半世紀以上が過ぎた今も、ほぼ休むことなく基本は週7日、電車で秋葉原へ通い続けている。
「勤め人だったら務まんないわね。お給料もらってるならね。自分の店だからやってるだけだよ」
継いで以来、仕入れも自分で行なってきた。神田まで足を運び、現物を手に取って確かめる。
「新刊だよって聞けば“売れるかな”って思って仕入れるの。昔は自分で仕入れにいったから、つい、無駄遣いもしちゃってたね。苦労しても儲かんないこともあったり。だって私、中身見てもよくわからないからね」
在庫を抱えてしまうこともあった。もっと自分に専門知識があれば……と思ったときもあるそうだが、友人からのこんな言葉に救われた。
「“知らなくてそれでいいんだよ。知ってれば楽しくなってたくさん仕入れちゃうから。知らないほうがよかったんだよ”って言ってくれたの」
知識よりも勘。そして、続けるための胆力。74年の時間が積み重ねたその感覚は、きっとどんな経営本にも書かれていない。
高度経済成長の追い風もあり、昭和50年代〜バブル期にかけて、技術書の需要は拡大。店は最盛期を迎える。
「店開ければ売れてたね。今みたく、ラジオセンター全体もこんな空いてなくて、通路を通るだけでも大変なぐらい人がいたよ。マイコン雑誌が出始めた頃でね。とにかく、毎日すごかった」
雑誌や技術書は飛ぶように売れ、多いときには「月500万円以上」の売り上げがあったという。専門系の店がひしめき合い、“電気の街・秋葉原”として全盛を誇った時代だ。当時店を訪れた若者が、その後大手電機メーカーに就職し技術者として活躍したという話もSNS経由で伝わっている。













