パッション屋良、沖縄で本物の体操のお兄さんに!
「僕の地元は沖縄県名護市のローカル地区。もともとテレビに出る仕事に興味はありましたが、僕が学生の頃はそんな話をしたら『何言ってるの?』と冷ややかな目で見られる雰囲気はありました」
幼少期から人を笑わせることが好き。でも”テレビの世界でご飯が食べられるほど、世の中甘くないよな”と冷静に考えるもうひとりの自分もいたという。
「そうなると、自分の生活の中でいちばん憧れる存在は体育教師でした。体育学部の大学受験は実技などがあり、普通の受験生とは少し対策が違うんですね。現役合格はできず、農業を営む頑固親父と口論になって『もういい、親の力を借りずに予備校に行く!』と、高校卒業してすぐ上京し、読売育英奨学会に申し込んだんです」
読売育英奨学会の読売奨学生として、朝夕の新聞配達をしながら浪人生活を2年。その後、無事、国士舘大学体育学部に合格した。
「当時の沖縄は、民放放送局が2局だけだったんですね。でも東京に来ると、沖縄にはない日本テレビ、テレビ東京、さらにはテレビ神奈川、千葉テレビ……リモコンのボタンのどこを押しても朝から晩まで面白い番組がやっている。ちょうど『爆笑オンエアバトル』(NHK)が人気で、僕のお笑いに対する想いも過熱していきました。
『せっかく東京にいるのに、このまま教師になるのってどうなんだろう?』『いやいや、やっぱり体育教師を目指すべきだ』とふたつの想いの中を揺れました。さらに、憧れのはずだった体育の先生と再会したんですが、昔とのギャップも感じてしまって。抑えていたお笑い芸人への感情が一気にあふれ出しました。大学を中退してお笑いの道に進みたかったんですが、さすがに卒業だけはしようと思って」
そんな大学4年の時、地元の同級生が(芸能事務所の)人力舎の養成所(スクールJCA)に通っていることを知る。
「会ってみると、彼はちょうどコンビを解散するタイミングで。『じゃあ、一緒に組もうよ』と僕から言って、お笑いコンビ『サミット75』を結成しました。半年以上、いろんな事務所のオーディションを受けに行きましたが、なかなか難しく。(現在も所属する)マセキ芸能社には2度目の挑戦で入れてもらえました」
しかし、コンビは約4年活動したものの、解散。
「調子が良いときって、すべてが円滑に回るじゃないですか? その逆で、ウケないとお互いのせいにし始めて、嫌なところばかりが見えてくる。『あそこのツッコミの間が悪いんじゃないの?』とか。そして、お互いの熱量も変わっていった。
だったら、自分が面白いと思うことを100%やってスベるほうが楽。ピンでやってみようと思いました。当初は陣内智則さんや劇団ひとりさんのような技巧派のコントをやりたかったんですけど……(笑)」













