将来も今も希望を語れなくなった日本

 私は今ロンドンにいて、日本語のものは読まないで、世界の研究を英語で読んでいるんですけども、そうすると日本社会とか日本の学会、歴史学会も含めて、非常にガラパゴス化している、閉鎖的になっているとすごく感じます。わかっている研究者もいるんですが、全体の雰囲気として、世界の研究動向とはかなり離れて、日本独自の狭い社会の中で回ってしまっている。

先ほど前川さんが言われたこととも関連するんですが、日本で戦後補償とか日本の加害責任について、市民の中で関心が広がったのは、80年代の終わりから90年代ぐらい、ちょうどバブル期です。あの頃は人々の意識が外に向いていた。するとアジアの人々の意識のことも考えざるをえないし、バブル期の日本は自信過剰でしたが、自信があるからこそ批判をある程度受け止められた。受け止めて何とか克服しようとしていたのです。

ところがバブルがはじけ、90年代後半から「日本がよくなるだろう」という展望が見えなくなった。

私が今ロンドンで、普通の町の食堂のようなレストランで外食すると大体2000~3000円ぐらいかかります。ワインはグラス1杯で千数百円です。かつて発展途上国の人が日本や先進国に来たとき、こういう感覚だったんだろうなと想像します。ただ、かつての発展途上国は「発展途上」だから「自分たちもいつかは豊かになれる」という希望を持っていた。でも今の日本では、希望を持てなくなっている。

現実を批判できるのは、批判することによって社会を良くしようとするからです。「こういう問題があるから、克服して、いい社会を作っていこう、自分もいい生活をしていこう」という希望があるからこそできる。でも今はその希望がない。

で、未来がこれ以上よくならないとすれば、現状を批判してしまうと居場所がなくなる。だから現実の中から、ともかく肯定できるものを探したい。でも今も未来にも、よりよいものがないのであれば、過去に求めるしかなくなる。それで過去、日本が世界に対して戦った「あのときの日本ってすごかったんじゃないか」と、過去にいいものを求めるしかなくなっている状況があるんじゃないか。

それと、非常に閉鎖的になって、「外の人々がどう考えているか」じゃなくて、内輪の中で「自分たちがよければそれでいい」という集団がどんどん作られている。現在のネット社会では、SNSで自分たちが気に入った集団だけで集まって「そうだそうだ」と言って喜んでいる。違う集団とは会話が成り立たなくなってくる。

日本社会全体もそうなりつつあって、そういう中で、そのような政党が出てきたのでしょう。

写真/Shutterstock
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英国などかつての帝国は斜陽となっても「国民の生活や安全をどう保障するか」を意識している

 そういう意味で、将来に対して何かの希望をどう語れるかが大事で。これはもちろん政治家にも語ってほしいし、研究者や教育者も語る必要がある。

ヨーロッパを見ていると、たとえばイギリスはかつて大英帝国でしたが、どんどん斜陽していった。オランダやベルギー、スペインもポルトガルもかつては帝国だったけどかつてのような栄光はないし、世界のリーダーにはなれないし、経済的にもトップとは言えない。しかし下がりながらも、その中で「国民の生活や安全をどう保障するのか」ということはかなり意識しながら社会を作ってきていると思います。

だから日本もGDPが中国やドイツに抜かれたけれど、だからといって社会がダメになっているわけじゃなくて、そういう中で「1人1人が安心して生活でき、生きていけるような社会をどう作っていくのか」という部分をきちんと、やってこなかった。たぶんこれは自民党政権がずっと続いてきた問題とつながっている。

そういう中で日本という国全体の大きさはもちろん中国には当然負けるでしょうけど、「1人1人の生活を見ると、決して卑下するようなものではなく、質の高いものをきちんと作れるんだ」という展望を示すことが大事だと思います。

今グローバルな中で、日本の中で生まれ育って、日本社会の中でも、外に出て行っても、「いろんなことで自分たちの能力を発達、発展させることができる」「そこで生きていくことができる」という希望を示すこと。そういう希望を持つことによって、初めて現実の問題を見つめ、それを批判して、自分たちで克服しようという意思が生まれてくるんだろうと思います。