古田の訴えを当初メディアは否定期に報道
対して日本はどうか。野茂が近鉄に複数年契約と代理人交渉制度を希望するもこれを拒否され、心ならずも球団を出されて、メジャーに挑戦すると言ったとき、選手会としては海外移籍をするのであれば、今ではなくNPBと交渉して制度を変えてから行くべきではないかという考えであった。ポスティング制度もまだ無い時代であった。
それでも岡田彰布会長は野茂の相談に乗ろうとしていた。1995年1月17日に大阪市内のホテルで午後7時に野茂と代理人の団野村、選手会の松原徹事務局長と4人の会合が決まっていた。岡田は、16日に所要で四国に来ており、約束した当日に空路で大阪に戻る予定であった。
ところが、まさにこの日の午前5時46分。激しい揺れが関西を襲った。阪神淡路大震災であった。岡田が乗る予定であった便は決行し、連絡も取れず、野茂との会見は流れてしまった。
それからほぼ半月が経過した2月8日、野茂はロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。岡田は野茂が野球ができなくなることだけは回避させたいと思っていたが、結果として選手会組織としては何もできないままにメジャー行きが決まった。
個々では応援した人もいたが、近鉄経営者のみならず、球界OBなどからもバッシングを受けた野茂は「日本球界の秩序を乱した」「メジャーでは通用しない」などの誹謗に一人耐えながら、年俸980万円で海を渡り、パイオニアとなった。
その野茂が貴重なオフに選手会主催のシンポジウムに出席をし、「日本の選手会もあり方を変えなければならない」と語っていた。
「選手会は困っている選手一人一人の問題に手を差し伸べなければならない」
「何かを打破するには、選手全員が一致団結して行動しなければいけないのではないか」
会場にいた事務局長の松原徹は、渡米前の野茂に対する選手会の対応を知っているからこそ、自省を込めて「今こそあのときの分までがんばれ」と言われているような気持ちになったという。
野茂は恨み言ひとつ言わないが、当時の選手会幹部選手を含むシンポジウムの参加者たちは、あの時、選手会はもっと精力的にサポートすべきではなかったのかと思わずにはいられなかった。
山崎は、野茂の本質を突いたスピーチの数々に古田が大きな影響を受けていたことを感じていた。以降、オフにも関わらず、古田は会長としてのリーダーシップを遺憾なく発揮し、代理人制度の導入に向けて邁進していく。
年が明け、2000年になると古田は、キャンプ前から積極的に選手が契約更改や移籍において法律のプロを雇う事の正当性をコメント発信していった。しかし、メディアは総じて好意的に伝えたわけではなかった。
2000年1月28日のスポーツニッポンは「法的手段辞さず 選手会・古田会長(ヤクルト)代理人強行!!」という見出しを打った。強行という言葉に横紙破り的なニュアンスを感じてしまう。本文は、機構(NPB)側にウエイトを置いた筆致で以下のように伝えている。
「代理人交渉を拒否し続けるには根拠が希薄という事情に加え、選手会は態度を硬化させる一方。時代のすう勢もあり、機構内部ではこれ以上拒み続けることは不可能との認識が一般的だ。既にコミッショナー事務局では代理人制導入後はこれまで以上の厳格な野球協約が必要との認識に立ち、文言の整備を水面下で続けている。2001年オフをメドに野球協約の改定を目指すが、選手会側が今オフの代理人交渉を強行すれば、機構側が押し切られる可能性も否定できない」
伝えるメディアの空気もまた保守的であった。
「代理人制導入後はこれまで以上の厳格な野球協約が必要との認識に立ち、文言の整備を水面下で続けている」とは、法的に選手の代理人制度は問題無いが、ならば導入後に立法して縛ればよいという考えに他ならず、明らかに選手管理の強化を意味しているが、批判的な視点を入れずにそのまま報じている。
山崎は、世界のプロアスリートの間では当たり前となっている代理人を交えたフェアな交渉が日本の野球界ではなぜここまで否定されるのか、不思議で仕方なかった。
当時の巨人軍オーナー・渡辺恒雄読売新聞会長に至ってはことあるごとに「代理人など連れて来た選手はクビにする」とまで公言していた。現在では度し難い暴言として炎上必至であるが、当時はメディアも面白がって焚きつけ、それが普通にスポーツ紙面などで流通していた。













