「これからは正々堂々と話して後世に残すのが私の役目」  

黒川開拓団 ©テレビ朝日
黒川開拓団 ©テレビ朝日

藤井会長の活動は今の日本を覆っている歴史修正の波に対する強烈なカウンターとしても見てとれる。藤井会長は戦後の1952年生まれで、当然「事件」には何も関係がない。

しかし、碑文の作成だけではなく、遺族会の代表として犠牲者である安江玲子さんにも逢いに行き、親の代の罪について直接的に謝罪の言葉をかけられている。

「『碑文が出来て終わりではない』と藤井さんはよく言っていました。こんなことを言うのも失礼かもしれませんが、藤井さんは自民党員なんですよ。私も『自虐史観とか言われて攻撃されませんでしたか?』と訊いたりしましたが、彼にとってはとても自然な行動なんですね。

あったことをなかったというのはおかしい、歴史には真摯に向き合うという考えです。(前作映画の)『ハマのドン』ともつながると思うのですが、コミュニティの中での圧力に打ち勝つ人としての強さを感じました」

ハマのドンこと藤木幸夫氏は横浜の港湾事業を取り仕切ってきた神奈川の最古参自民党員で中央政界とのパイプも強い保守の重鎮であったが、ときの総理である菅義偉が推し進めたカジノ誘致に真っ向から反対してこれを覆した。

「港で博打はさせない」という信条が反対派市民との連帯を生み、最高権力者による肝いりの国策をついに阻止した。二つの映画で表されたのは、政治党派にからめとられない真っ当な人間性が成し得た仕事の結実だろうか。

――やはり佐藤ハルエさんの行動がもたらしたものは大きかったでしょうか。ハルエさんは弟からも「満州で汚れた女は嫁にはもういけない」と言われて、ひるがのへ移住してゼロから酪農を開拓されました。

苦労の生き様が牛舎で飼い葉をやるシーンからも拝察できました。お亡くなりになるときに安江菊美さんがハルエさんの手を握ってかけた「満州で、日本で、難儀されて」という言葉から、二人の大きな絆を感じました。

「藤井さんも私もハルエさんの行動に突き動かされたと思います。私自身、ハルエさんの逝去に際して、生き方を問われた気がしました。そして亡くなられる瞬間に立ち会えたことで、伝えなくてはいけないという気持ちがさらに強くなりました。

ハルエさんは事実のみを丁寧に語られるのです。ひるがので結婚された相手の男性も満州帰りの方です。すべてを話されて、梅毒が治った証明書を相手のご両親に見せられたそうです」

――満洲での体験をずっと秘めてこられた水野たづさんも「これからは正々堂々と話して後世に残すのが私の役目」とカメラの前で話されていました。松原さんが、(映画に)お名前を出しても良いですか?と訊かれて快諾をされているシーンが印象的でした。

「これまでも水野たづさんのところにはいくつものメディアが取材に来ていました。一時期、匿名で話をされていたこともありましたが、息子さんが嫌がるので再び沈黙されました。それでも話すようになったのは、ハルエさんらが声をあげ戦後世代の藤井さんたちが理解し受け止めたからですね」