[第二子妊娠公表]
amy_tatsubuchi 2024/01/23
そんなこんなで、第二子妊娠を公表したのは4月終わり。8月には出産予定で、「変革期にお役に立たず申し訳ない」気持ちの女侍な私は、7月末まで働いてしまう。翌年妊娠したあかねちゃんだって、出産5週間前まで富士山ロケにいったり、週3回夜中の2時に、ロケバスで抱き枕抱える仕事量で臨月を迎えたらしいから、本当によくぞ、ご無事でご出産なさいました。妊娠ラッシュの『エル』に「こうのとりがいるのなら追い払いたい!」という塚本さんの発言が話題になり、みなが震えたのが2014年(つい口にだしてしまえる時代でした。お許しを)。上司も部下も働くママに免疫がなく、日本全体、企業のコンプライアンスが未成熟だった。継続していた他の仕事もあり、あえて『エル』を契約にしていた私。「帰る場所も担保されていないのに、そんなに忠義を尽くす必要もなかったよね」と、休むと同時に、なんだか虚しい気持ちに。早めに休んで、お友達おすすめの海外出産とかしたほうがよかったのでは?私の女侍スピリットが、子どもと家族の可能性を狭めたのでは?と落ち込む。おつかれさまのお花が編集部から自宅に届いたが、受け取りを拒否の2012年夏。
[次女出産]
amy_tatsubuchi 2024/01/24
2012年8月2日に次女誕生。最初の出産後荒れた私を知っている夫は、「代わりに産んであげることはできないから」と、パリで腕時計を買ってきて必死に私を励ました。こんな時のプレゼントは、人生の目盛りを深くするのだなぁ、と痛み入る。自分の頑張りとは関係なく、出産や育児に振り回されるキャリアにはもう、うんざり。退院して帰宅すると、妹の存在を認められず、毎晩2~3時間絶叫して暴れる長女が待っていた。孫ひとりの時は、手伝ってくれた母も、「ここは戦場みたい…」と言い残して早々に退散。愛する娘の癇癪をどうしてよいかわからず、母乳はとまり、夫と声をだして抱き合って泣く。満身創痍の私は40歳になろうとしていた。昼間は朗らかな長女が、夜には豹変していたなんとも辛い時期。
[創刊号、いざ開戦]
amy_tatsubuchi 2024/01/27
私が採用した25歳のシッター、ジャスミンは、生まれて間もない我が子をフィリピンの実母に預けて出稼ぎに。私は次女をジャスミンに預けて、再びモードの戦場へ。女たちはそれぞれの事情を抱えて相利共生の2013年。8月に出産して1月に復帰するまでに、家の体制を整えながら、お互いいっぱいいっぱいな夫とはお見苦しい夫婦喧嘩を連発。彼だって最高に忙しい時期だったから、過度な期待は危険を招く。長女の朝の送りは夫担当だし、週末も子どもと遊んでいるわけだから、もう十分、「やってくれていることに感謝」が夫婦円満の秘訣と気づき始めた頃。子どもをケアできる週数回の出勤だし、私が働くことでジャスミンという新しい雇用を生んでいることを誇りに思って、誰にも気兼ねなく働きたい。彼女の賃金を払ってしまうと、私のサラリーはほとんど手元に残らなかったけれど、そんな時期は一生は続かないだろうと、いまに集中して走ることに決めた。創刊は9月とゴール設定されていたから、なんとかそこまで家族も自分ももってほしい…、とまさに祈るような気持ちで、いざ開戦!
文/龍淵 絵美