それでもウクライナに留まり続ける理由

そう胸を張る中村さんがウクライナへ留学に来たのは、今からちょうど20年前。34歳の時で、最初の1年は外国人留学生のための語学研修を受けた。その後はロシア語の専門学科へ進んだ。合唱団にも所属し、学生たちと交流を深めた。

「その頃、ベンチプレスのトレーニング中に大怪我をしました。一命は取り留めましたが、喉の気管支が潰れ、声の調子がおかしくなりました。それでも合唱団に入れてもらい、それが発声の練習になりましたね。周りの学生たちは僕と年齢差がありましたが、全く気にしていない様子。おかげでたくさん友人もできましたし、楽しかったですね」

大学院にも進学したが、途中でキーウ国立工科大学にある日本ウクライナセンターから声が掛かり、大学院を中退して職員として働く。仕事は日本語図書室の管理や日本語教師など。以来、10年が経ち、現在は大学近くにあるアパートで1人暮らしをしている。

「ウクライナってのんびりしているんですよ。約束しても時間通りにまず来ないし、ルーズです。その緩さが、心地いいんですよね。ただ、それに慣れると日本社会に適応するには『リハビリ』が必要ですけどね」

そう言って中村さんは笑う。

幼少期に父親が他界したほか、兄と母親も20代の頃に亡くなっているため、日本に家族はいない。毎年正月になると、東京にいる親族に会いに帰国するが、その恒例行事も新型コロナの影響で途絶えた。日本社会への復帰は考えておらず、このままウクライナに骨を埋める覚悟だ。

「自分が死んだらギドロパークに散骨して欲しいです」

それほどまでに思い入れの強い第二の故郷ウクライナ––––。2014年にクリミア半島が併合されて以降、その動向は注視してきたが、まさかキーウまでロシア軍に侵攻されるとは思ってもみなかった。

2月24日早朝に突然、爆発音を聞き、勤務先の日本ウクライナセンターから自宅待機を指示された。中村さんはアパートの部屋で過ごし、時間を見つけては、同じアパートのシェルターに避難していた子供たちに、ゆでたじゃがいもなどの差し入れをした。