最底辺から這い上がる日々が始まった

そんなわけで2001年から、ハイエース1台にメンバー4人で乗って、全国のライブハウスを回る日々が始まる。どの地方に行っても動員は激減していたが、そこから一歩一歩這い上がって行く日々は、意外と充実したものだったそうだ。

「移動から機材のセッティングからバラシから、物販まで、全部自分たちでやる。ちょっと前までは全部スタッフがやってくれてたことだから、最初は『こんなことまで自分でやるのか』って凹んだりもしましたね。

自分たちだけになって最初のツアーを回ったときは、びっくりするぐらいお客さんが減ってました。でも、それにも慣れてきて、次に行くときはちょっとでも増やせるように頑張ろう、とかそういう考え方になっていきました。

実際、いいライブをやれたなと思った場所は、次に行ったときに動員が増えていたりするし、いいライブをやった日は、物販の動きもよかったりする。メジャーにいた後半は、全部スタッフまかせだったので、そういう実感がわからなくなってたんですよね」

そんな生活の中、35歳のときに「深夜高速」は生まれた。「ヘッドライトの光は手前しか照らさない」「生きててよかった そんな夜を探してる」という歌詞のとおり、ハイエースで全国各地を回り続ける現在の自分自身を、赤裸々に描いた曲である。

「生きててよかった」のサビのリフレインが印象に残る「深夜高速」
「生きててよかった」のサビのリフレインが印象に残る「深夜高速」

「あれ? もしかしてこの曲、いい曲なんじゃないの?」 

ただ、当時は、圭介も、メンバーも、この曲がバンドにとって極めて重要な存在になるとは、まったく思わなかったと言う。

「この頃の活動のルーティンとして、ツアーに出ますっていうときに、物販としてシングルCDを作って販売する、ということになっていました。

Tシャツとかのグッズが、今ほど売れる時代でもなかったので。だからツアーの度に、アルバムは無理でもシングルを作りましょうっていうことで、候補曲を何曲か作るんですけど、このときは『まぁ、この中ではこれがいちばんいいんじゃない?』って、わりと淡々と決まって。

近い時期に作った『東京タワー』のときは、メンバーみんなが『これはいいね!』って言ってくれたけど、『深夜高速』は、そういう感じでは一切なかったですね。

グレートに至っては……そのときは言われなかったけど、あとで聞いた話だと、この曲をシングルにするのはやめた方がいいんじゃないか、とも思ってたらしい。『生きててよかった』っていうフレーズが、僕の状況も知っていたので、ちょっと痛すぎるな、と思ったんじゃないかな。

それは自分も思ってました。あと『生きててよかった』って、ちょっとクサすぎるんじゃないかな? 恥ずかしいかも、と。でもそこで、伊作さんに言われた『いちばん恥ずかしいことを歌にしろ』っていうことに立ち返って」

そうしてレコーディングをした「深夜高速」をライブで演奏し始めてすぐ、この曲がフラカン史上かつてないほどの、言わば「その場で聴き手に刺さる曲」であることを、4人は実感していく。

CDができあがってライブ会場での販売が始まると、どこでもそれまでにない売れ方をしていく。新宿ロフトでのイベントでは、100枚近い数が売れたという。キャパ500人のロフトでそんな数のCDが売れるのは、異常な事態である。

「当時の手帳があったから、今日持って来たんですけど。これによると、2004年の3月27日、渋谷ラ・ママのイベントに出たとき、『深夜高速』をやってますね。出番後の物販で、お客さんに『あの曲なんですか?』って訊かれました。

そのあともライブで演奏する度に「あの曲は……」と訊かれるて、シングルを売り始めたら、今までにない数が売れていく。それで『あれ? もしかしてこの曲、いい曲なんじゃないの?』って、メンバーで話したことは憶えてます」

〈後編〉「50歳をすぎて歌う『深夜高速』はヤバい。死ぬってことがよりリアリティを持って…」 フラワーカンパニーズの名曲はなぜここまで愛され続けているのか に続く

取材・文/兵庫慎司 撮影/マスダレンゾ