「聴覚」も「視覚」も勘違いを起こしやすい

特に日本語は同音異義語だらけなので、耳での勘違いが非常に多い。

「精神科医療(せいしんかいょう)を受けました」が「精神改良(せいしんかいりょう)を受けました」に聞こえて「脳手術でもしたのか?」と思ったり、「ありのまま」と聞いてレットイットゴーかと思ったら女王アリの話だったり、「疑われてますよ」と警察の捜査のセリフかと思ったら「歌が割れてますよ」とレコーディングエンジニアのセリフだったり、「感染者多数」と聞いてコロナの報道かと思ったらサポーター満員御礼のサッカーのニュースだったり、「子どもたちにアイスが足りない」とおやつの話かと思ったら「『愛す』が足りない」という子育て指導の話だったり、「ジョージ・マッケンジーです」と聞いて外国人かと思ったら「城島健司」という名前の日本人だったり、そういった誤解・勘違いは日常茶飯事です。

「ここではきものをぬいでください」どう読む? 目の見えない精神科医が「見えていても見えないことがある」と説く理由_2

子どもの頃、父親が「シカイシカイノシカイをやった」と聞いて、司会を3回もやったのかと思ったら、「歯科医師会の司会をやった」という話でした。

そして耳の「聴覚」と同様、目の「視覚」もまた、人によって解釈が変わり、非常に勘違いを起こしやすい感覚です。

「え? 見えているものは、誰がどう見たって一緒でしょ? 人によって見えるものが変わるなんて、そんなわけない!」

そう思われるかもしれませんが、例えば次の文字をあなたはどう読みますか?

・東大助教授
・ここではきものをぬいでください
・私が行ったコンサート

「あずまだいすけきょうじゅ」に見えた人もいれば、「とうだいじょきょうじゅ」に見えた人もいるでしょう。

「ここで履き物を脱いでください」と玄関を想像した人もいれば、「ここでは着物を脱いでください」と脱衣所を想像した人もいるでしょう。

「私がいったコンサート」と観客側の話と思った人もいれば、「私がおこなったコンサート」と演奏側の話と思った人もいるでしょう。