「革命後の社会ってこんな感じかなって思えた」
この1972年冬、現闘委は初めての「越冬闘争」を闘った。越冬闘争は年末年始の役所の閉庁期間に、労働者を「野垂れ死に」させることなく、生き抜いて、衣食住の問題を解決し、仲間の団結を高めていく闘いだ。
宇賀神さんは個人として、越冬闘争に参加したことで初めて、山谷労働者のありのままを目の当たりにする。積極的にパトロールや炊き出しに参加していく労働者たちの生き生きとした姿に、血湧き肉躍る思いがした。それは、三里塚で味わった思いと同じだった。
「非常に労働者が生き生きとして、炊事活動で美味しいものを作って、人民パトロールで寝ている人を起こしてテント村に来ないかと呼びかけて、誰も死なせない活動を一緒に闘って、それが面白くて、革命後の社会、コミューンってこんな感じかなって思えた」(宇賀神さん)
1973年夏は単身、釜ヶ崎に行き、ドヤに泊まって日雇い労働をした。そこで、労働者の怒りで暴動が起きそうな場面に遭遇。しかし、群衆に紛れた私服警官がナチス棒で次々に怒りを表明する労働者に襲いかかり、火種を根こそぎ叩き潰すさまを目の当たりにした。
1973年秋は黒川さんの依頼で、現闘委の活動として高田馬場の悪徳手配業者を調査し、追放闘争の後方支援を担った。労働者の賃金をピンハネしたり、暴力で脅したり、不当労働行為の下、寄せ場労働者を酷使・搾取する「悪徳」手配業者が後を絶たなかったからだ。
対象とされたのが、新井技建だ。道中さんは当時、現闘委で実際に闘争の渦中にいた。
「労働災害が起きてもほったらかしにするわ、調査によって最低の賃金で、棒で叩いて脅してコキ使うのも明らかになった。1973年6月、朝早く南千住から現闘委が15人、国鉄で高田馬場まで行き、駅に降りた途端、みんなが走り出して、新井技建のマイクロバスをメチャクチャに壊した。この闘争でパクられたのは2人、すぐに出てきたけど」(道中さん)
これが、現闘委の悪徳業者を許さない闘いだった。宇賀神さんは野次馬の1人として、素知らぬ顔で見物していた。
「寄せ場から追放されて、当然の業者だった。私は心の中で、『思い知ったか! 反省しろ!』と叫んでいた。この後、手配師や業者の、労働者への対応が少し違ってきて、寄せ場の主人公は誰なのか、よくわかった闘いだった」(宇賀神さん)