基本的に死刑廃止論者である理由
しかし、皮肉にも「権力者である裁判官になる」という夢は、卒業前の死刑に関わった体験で破られた。というのは、中国では当時も今も、死刑執行をその場で指揮するのは、当該死刑判決を言い渡した裁判官本人なのである。
筆者は、実習のときの体験から、自分がそれを好きでないことが分かったし、実習が終わった後、毎晩死刑執行の場面が目の前に浮かんで来る悪夢を約1ヶ月間ずっと見て、夜中に変な叫び声を上げ続けていた。
それで、自分は人に死刑を言い渡し、実際にその執行を指揮することができるほど「偉い男」ではないことを悟ったのである。
裁判官志望を諦めて最終的に法学研究者に転向した筆者の権力に関するこれまで辿った心理的過程は、「権力の崇拝者→権力の懐疑者→権力の理解者」というようなものであった。大学での体験を経て、死刑は廃止すべきであると思うようになったのである。
しかし、それ以来筆者はその姿勢を貫き、死刑が必要であると思ったことはどんなときでも、どんな場合でも一度もなかったかと言うと、明らかにうそになる。
今でも時々、「死刑はあっても仕方がない」「死刑はやむを得ない」と思うことがある。特に、何の落ち度もない子供が殺されて孤独で悲惨な人生に追い込まれた親の苦しい表情や、犯人によって親を殺されて孤児になった幼い子供の可哀そうな顔を見たとき、また、人を殺したのに他人事のように振る舞う犯罪者を目の当たりにしたときには、「死刑は例外的にあってもよい」「この事件だけは死刑が適用されてもよい」と思うこともある。
ここに、筆者が、自分は「基本的に死刑廃止論者」と述べるわけがある。